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今回の選挙は、後の時代の人たちからは、歴史的に決定的な意味を持つものとして振り返られるだろう。あそこで踏み止まるべきだった、なぜあそこでがんばれなかったのかと、変わり果ててしまった日本に生きる彼らは、今の有権者——つまりは私たち——に対して、しきりに首を傾げるに違いない。そして、このどことなく深刻さを欠き、熱狂もないまま自公の圧勝へと向かいつつある選挙は、苦い分析研究の対象となるはずである。
しかし、まだ終わったわけではない。私たちはまだ辛うじて、間に合っているのである。
基本的な事実を、もう一度、確認しておきたい。
首相は、解散前の11月18日の記者会見で、「国民生活にとって、そして国民経済にとって、重い、重い決断をする以上、すみやかに、国民に信を問うべきである、そう決心いたしました」と述べ、解散の「大義」は、消費税率10%への引き上げを18ヶ月延期するという政治決断の是非を問うことだとしている。ここが、すべての始まりである。
ところが、11月21日、解散の日の記者会見では、「アベノミクスを前に進めるのか、止めてしまうのか、それを問う選挙だ」と、その「大義」をそらしてしまい、「アベノミクス解散」だと宣言している。
これは、一見すると奇妙な変化である。
もちろん、消費税率の引き上げ延期に賛成することが、そのままアベノミクスへの支持につながるわけではない。例えば、民主党は前者には賛成だが、後者には反対である。
しかし、そうしたロジックよりも、もっと不可解なのは、国民の多くが同意していた消費税率引き上げ延期に比して、アベノミクスの評価は、むしろ遙かに論争的で、賛否が分かれているという事実である。
なぜそんなことをわざわざ争点化しようとするのか?
実際、12月10、11日に共同通信が行った世論調査では、アベノミクスを「評価しない」という回答は51.8%にも上り、「評価する」の37.1%を大きく引き離している。
現政権は、間違いを犯したのだろうか? ところが、同調査での内閣支持率は48.7%で、不支持率41.1%を上回り、報道によれば、選挙は一貫して与党に有利な展開となっている。
これは一体、何を意味しているのだろうか?
一つには解散権の乱用に対する批判がある。
この解散には、最初からこの解散権の乱用という批判があった。
消費税率の引き上げ延期は、解散せずとも、三党合意に基づく消費税増税法附則第18条に規定された景気弾力条項に従って判断を下せば良かったはずだった。首相は、野党は引き上げ時期を明確にしていないから、という、それこそ議論すればよいだけの話を持ち出して、無理な正当化を試みているが、更にその無理のために、18カ月後にはどんな経済状況でも必ず消費税率の引き上げを行うという、理不尽な主張を断固として掲げている。この18カ月という数字は、一体、どこから出てきたのだろうか?
他方で、この解散は、背後に財務省の財政規律派との対決があるのだとする意見もある。実際に首相自らが11月30日のフジテレビの番組の中でそれに言及しているし、"裏切られた”と感じている官僚もいるだろう。しかし、仮にそうした意味があるとしても、それを以て正式な解散理由とはならない。
とは言え、それでもまだ、消費税率の引き上げ延期は、具体的な話ではある。
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しかし、比較的高い支持率を維持し、議会でも多数の議席を有したまま、急に思いついたように、「勢いをつけたい」などという理由で、アベノミクスの是非を問う解散をしてみるというのは、解散権の乱用以外の何ものでもない。だからこそ、まずは消費税率引き上げの延期を「大義」として挙げなければならなかった。
なるほど、11月18日の解散記者会見でも、後段では、「私たちが進めている経済政策が間違っているのか。正しいのか。本当に他に選択肢があるのかどうか。この選挙戦の論戦を通じて、明らかにしてまいります。そして国民の皆様の声をうかがいたいと思います」とアベノミクスの是非にも言及はしている。しかし、これはあくまで「選挙戦の論戦を通じて」という話であり、解散の「大義」ではなかったはずである。
もちろん、首相がどんなつもりで解散したとしても、それに納得しないのであれば、国民には争点を決める自由がある。
そこで、冒頭の疑問に戻るのだが、もし11月18日の記者会見通り、消費税率引き上げ延期という小泉流のシングル・イシューで選挙を戦おうとしたならば、いかに短いとはいえ、投票日まではさすがにもたず、たちまち、他の争点が噴出して、選挙戦はコントロール不能となっていただろう。実際、それを警戒して、官房長官は早々と11月19日に、集団的自衛権の行使容認の閣議決定や特定秘密保護法は、「争点にならない」と牽制している。
そして、彼らはどうしてもアベノミクスの是非を争点にしたかった。
なぜ、彼らはこの論争的な争点が、選挙戦略上、有効だと考えたのか? それはまさに、論争的であるからこそである。
アベノミクスといっても、「3本の矢」のそれぞれに議論がある。ここもまたミソなのだが、その包括的な評価については、最大限慎重に言って、今というこのいかにも狙い澄ました中途半端な時期には、ジャッジの下しようがない。大半の人には、まだ何とも言えない、というのが、正直なところではあるまいか。
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首相は、「この道しかない」、「本当に他に選択肢があるのかどうか」という問いを発し続け、有権者を視野狭窄的な議論へと駆り立て続けている
こんなことを書くと、たちまち、「お前はバカか? 経済のことを何もわかってないだろう? うまくいってるじゃないか!」という声が飛んでくるに違いない。しかし、それに対して、今度はまた別の方面から、「お前こそバカか? 全然うまくいってないだろう!」という反論が飛んでくる、というのが今の状況である。そうしてこの間、ありとあらゆる経済指標やデータが飛び交い、解釈が入り乱れ、専門家のみならず、一般の有権者までもがリフレの是非を巡って罵り合いに近いような論争を繰り返している。そして、まさしくこの状況こそ、与党の思惑通りだと思われるのである。
実際、首相は、「この道しかない」、「本当に他に選択肢があるのかどうか」という問いを発し続け、有権者を視野狭窄的な議論へと駆り立て続けている。
もちろん、政府の経済政策について議論することは重要である。しかしそれが、反論の余地なく正しいからこそ、今は一層問題である。というのも、投票日までの時間は有限であり、ミクロ経済からマクロ経済、果ては資本主義そのものの終焉にまで話が及ぶこの論争は、思想も相俟って、今や神学論争的な様相を呈しており、現政権の他の数多ある問題点を議論するための時間を、猛烈な勢いで、ほぼ食い尽くそうとしているからである。
繰り返すが、なぜそうなってしまったのかは、安倍政権が今という中途半端な時期に解散をしたからである。そして、中途半端ではあるが、ギリギリのタイミングだった。既に海外の新聞は、日本が景気後退局面に入ったと明確に報じているが、日本での認識には、メディアにも大いに責任のあるタイムラグがあるからである。
私自身はと言うと、少なくとも、「3本目の矢」である経済成長のための安倍政権の世界観自体が、原発再稼働に象徴されるようにあまりにも反動的であるが故に、アベノミクスは失敗すると考えている。しかし、ここからまた、際限もない議論が始まるだろう。
——これが、私の見るところの目下の状況である。そうして、この論争の渦中で熱気を煽られる有権者がいる一方で、すっかり嫌気が差して、冷えきってゆく有権者もいる。
しかし、一旦、距離を取って、もう一度、そもそもこの解散が何であるのかを考えてほしい。
多くの人が見透かしている通り、結局、消費税率の引き上げ延期も、アベノミクスも、解散の「大義」のための「大義」であり、本当の目的は、相次ぐ閣僚の不祥事による内閣改造の失敗、更には集団的自衛権の行使容認の閣議決定、武器輸出三原則の撤廃、特定秘密保護法の制定、原発再稼働、……といった、第二次安倍内閣の数々の問題——その都度、大きな批判が巻き起こり、内閣支持率を低下させてきた問題——に一旦区切りをつけ、すべてを"終わった話”にすることである。そして、来年の国会での集団的自衛権の関連法案の審議や景気後退による支持率低下に備えて政権基盤を強化し、9月の総裁選挙にのぞむためである。それ以外にない。そして私は、それ以上のスケジュールとして、今の首相が、東京オリンピックまで政権の座にいるつもりだという日経新聞11月21日付の記事【早期解散は「微修正の範囲内」】を強ち大袈裟な話だとは思わない。
日本はいよいよ、戦争が可能な“普通の国”となる
新聞各紙の調査では、連立与党は2/3以上の議席を獲得するとの予想である。そうなければ、首相の悲願である「戦後レジームからの脱却」、すなわち憲法改正も現実味を帯びてくる。集団的自衛権の関連法も整備され、日本はいよいよ、戦争が可能な“普通の国”となる。当然、殺し、殺される。平和国家日本という、戦後、築き上げてきた地位は70年目にして潰え、ネットワーク化されたテロリズムに対するパラノイア的な脅威から、社会の監視体制は一層強化されるだろう。政権に批判的なメディアへの、開き直った露骨な干渉は、既に始まっている。2010年には世界で11位だった「世界報道自由度ランキング」は、今や59位にまで低下している。
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15年に及ぶデフレからの脱却。——それももちろん、重要だろう。しかし、そのために、戦後70年続いた体制を転換しようとする現政権の方針について、まるで議論しないまま、私たちは今、信任を与えようとしている。
本当にそれで良いのだろうか?
山崎雅弘氏の【首相が「どの論点を避けているか」にも目を向けてみる】にある日本が「変わった」という印象を、この一年ほど強くしたことはなかった。
もちろん、どんな時代にも、社会には問題がある。しかし、今日ほど、それが一つの政権の成立と密接に結びついていると感じられたことはなかった。
気づいた者たちは、必ず嘲笑を浴びる
予兆に気づくことは難しい。しかも、予兆とは、現に事態が生じた時にしか、それが予兆であったと証明されないものであるだけに、辛うじて気づいた者たちは、必ず嘲笑を浴びることとなっている。これは、必定である。
ビルの倒壊の予兆とは、天井からヘンな粉が落ちてくるだとか、壁の向こうから妙な物音がするだとか、床が少しゆがんでいるとか、大抵はそういうものだろう。そして、上から落ちてきた粉を指にとって、「なんか、おかしくないですか?」と尋ねた人は、「ただのホコリだろう?大丈夫か?」と失笑されるものである。
しかし今は、その予兆に気づいている人たちも決して少なくはない。それは、先の大戦を知る人たちであり、また外国人たちである。彼らは「日本がおかしくなっている」と感じている。それは、過去の経験の故であり、また日本との距離の故である。そして、その違和感は、私たち自身の「おかしい」という実感とも合致している。
2015年は、第二次世界大戦終結後70年目に当たる年である。日本はその年を、どのような政権で迎えるべきだろうか?
「戦後レジームからの脱却」を自らの政治家としての使命とする首相は、この節目の年をただぼんやりとは過ごさないだろう。
大手メディアを巻き込んだ現政権の「歴史修正主義」は、既に世界中で顰蹙を買っている。国会で「侵略の定義は定まっていない」と発言し、従軍慰安婦問題を連行形態の議論に矮小化させ、靖国神社に参拝し、日本国憲法を急ごしらえの押しつけ憲法だと否定する首相のために、日本は来年、韓国、中国のみならず、世界から決定的に孤立する可能性がある。それは、私たち日本人が、戦後一度も経験したことのない、薄ら寒い孤立である。
首相は、事ある毎に「責任」という言葉を連発する。しかし、たとえ彼が首相の座を去ろうとも、現政権が制定した法律や、引き起こした政治的状況は、その後も長く残り続ける。押しつけられるのは、次の世代である。
スラヴォイ・ジジェクは、『イデオロギーの崇高な対象』の中で、「キュニシズム(キニク主義)」と「シニシズム」との違いを次のように説明している。
キュニシズムというのは、民衆・下層大衆が皮肉や風刺を用いて公式的文化を拒絶することである。キュニシズムの古典的な手順は、支配階級の公式的イデオロギーの感傷的な謳い文句とその荘厳で重苦しい調子にたいして、日常的な凡庸さを対置し、公式的なイデオロギーを嘲笑することによって、イデオロギー的謳い文句の崇高な高貴さの背後にある利己的な関心、暴力、貪婪な権力欲を暴くことである。シニシズムは、このキュニシズム的転覆にたいする支配的文化の側からの答えである。シニシズムは、イデオロギー的普遍性の背後にある特殊な関心や、イデオロギーの仮面と現実との間の距離を、ちゃんと認識しているし、考慮に入れている。にもかかわらず、仮面を脱ぎ捨てるべきではないと判断するのだ。
「ニッポンを取り戻す」という安倍政権のスローガンに対しては、絶えずキュニシズムがあった。それに対して、熱く激昂し、嘲笑する政権支持者たちがいる一方で、実のところ多くは、ここで言われているような、冷めたシニシズムの立場ではなかったか。
言っていることはわかっている。しかし、その批判は「責任倫理」に対する「心情倫理」だと蔑み、あるいは、現実に対する「お花畑」の理想主義だとからかって、結局は、「仮面は脱ぎ捨てるべきではない」という判断に至る。さもなくば、個別の政策について、あれほど反対意見が多いにも拘わらず、現政権が高支持率を維持し続け、選挙でかくも大勝が予想されていることの説明がつかない(もちろん、選挙制度自体に大いに問題があるのだが)。
そして、ジジェクに言わせるなら、体制を維持するのは、愚直な忠誠心よりも、むしろこうしたシニシズムなのである。
現政権の政策と思想、歴史観、そして、それが引き起こしている状況にまったく肯定的な人たちが、ここに書いてあることを読んで考えを変え、野党に投票するということはあるだろうか? 私はそれを期待しているが、悲観的でもある。人は、そう簡単には自らの考えを変えられないものであり、それは、私自身が急に安倍政権を支持したりしないのと同様である(その時間のかかることのために、私は小説を書き続けているのだが……)。
しかし、何かおかしいと感じながら、それでもなお、自民党に投票するつもりの人たちには、その違和感にこそ忠実になってほしい。安倍政権は必ずしも支持しないが、自民党は支持しているという人は、その思いを実現するような投票行動もあるのではないだろうか。
そしてやはり、そもそも、この選挙自体に関心を持たなかった人には、投票所に足を運んでほしいと願っている。未来の世界から、自分がどのように見えるのかを想像してみながら。
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