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【総選挙2014】投票だけでは済まないこと

  • 吉田徹 (北海道大学法学研究科教授)
  • 2014年12月6日


© iStock.com / winhorse

戦後日本の内閣の平均任期は、おおよそ2年2カ月だ 。2012年12月に発足した安倍内閣も、この師走でちょうど2年を迎えるから、そう考えると「ここら辺りで解散総選挙を」という機運があったとしても不思議ではない。ネタもスキャンダルも少なく、政治は視聴率も話題も呼ばなくなっていたから、降って涌いたような解散話に対し、マスコミも一斉にこの風に乗った。

ただ、よくみれば、今回の解散は政権与党が有利になるように仕向けられた「仕組まれた解散」のようにみえる。実のところ、消費増税先送りはアベノミクスの修正を意味するから、野党は解散そのものを批判しにくくなる。解散したことを批判すれば、アベノミクス路線を認めかねないことになるからだ。野党はこの袋小路に陥るのを避けようとするため、勢い議論はわかりにくくなっていく。議論がわかりにくくなっていくと有権者の関心が低くなり、そして自公が有利な選挙結果になるというわけだ。 それでも、あるいはそれゆえに、今回の解散総選挙の位置づけは、形式的にも実質的にも、座りが悪い。その意味合いを、政治と有権者の2つの次元に分けて論じてみたい。

肝心なことは問われずに

まず「大義なき解散」といわれるように、この選挙では何のための、何を問う解散なのかがさほど明らかにされていない。

「税金を上げること」について民意を問うのは理に適っているが、「税金を上げないこと」について民意を問うことに、大義はない

安倍首相が記者会見で指摘した「税こそ民主主義」という原則は間違ってはいない。しかし、言及された「代表なくして課税なし」の原則が謳われたのは、「ボストン茶会事件」である。そのことからもわかるように、それは為政者が「(戦争のために)民意が黙っているのをいいことに、勝手に徴税してはならない」という意味においてである。だから、「税金を上げること」について民意を問うのは理に適っているが、「税金を上げないこと」について民意を問うことに、大義はないのである。しかも、この肝心の「税金を上げること」については、選挙で問われることなく、そもそも勝手に議会で3党間の合意で決めてしまったのだから、性質が悪いというほかない。

「民主的」な手法による「非民主的」な政策の実現

なぜ解散だったのか。

一番妥当なのは、すでに各所で指摘されているように、集団的安全保障の法制化原発再稼働といった、世論の反対を真っ向から受ける政治課題をこなすために、フリーハンドを確保するための勢いを得ようとして解散した、という解釈だろう。これに、景況感悪化による支持率低下大臣辞任を伴う内閣改造の失敗や統一地方選挙のタイミングなどが今回の解散を導いたとみるべきである。

安倍政権には、大きな方程式ないし「癖」のようなものがある。それは、選挙までは世論が重視する合意的争点(景気・雇用・財政)を政策の優先順位の上位に置き、選挙に勝つことでお墨付きを経てから、今度は内閣が重視する分断的な争点(安全保障・増税)が優先されるようになることだ。

2012年末に政権が発足してから翌年7月の参院選まで、政権はアベノミクスの実現に政策資源を投入し、そのアピールに躍起になっていた。しかし参院選でねじれが解消されると 、特定秘密保護法が検討され始め、その後も集団的自衛権についての憲法解釈があり、消費税が引き上げられていく。さらに、その過程では、首相の靖国参拝もあった。


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安倍自民党政権の政策処理にタイミングを見計らってマスコミを誘導し、自らが望む政策を進めていくこうした政権のタイムマネージメント能力は、歴代内閣の中でも突出して優れている消費税増税と同じタイミングで日朝協議が始まり首相の外交日程に合わせて解散の憶測が流れた )。しかし、それゆえに(民意がそれほど重視していないという意味で)「非民主的な政策」が、(それが民意の選択であるという意味で)「民主的な手法」である選挙を通じて成し遂げられるという、「ネガティヴな民主化」(カール・マンハイム)が進んでいっているのだ。しかしこの民主化の過程は、民主的な正当性を選挙に求める限り、それを是正することは非常に難しいのである。

駒崎氏の誤謬

以上は政界の話として、次に有権者に焦点を当ててみよう。

選挙が近づくと、メディアや識者を含め、選挙に行くこと自体に価値があるかのように喧伝するのが常套手段になっている。例えば、駒崎弘樹氏は「選挙に行かない男と、付き合ってはいけない5つの理由」と題したエントリで「選挙を放棄するということは、君にも君たちの子どもの将来にも、本気では関心ないよ、ということと一緒」と強調して、選挙に行くことの意義を熱心に説いている。


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もっとも、こうした主張は、政治や選挙が何であるかを理解していないか、少なくとも極端に単純化した物言いだ。読めばわかるが、ここでは選挙で投票すること=政策を決めることということが無条件の前提として置かれている。選挙が政策と無関係とは言わないが、選挙は政策を選ぶことではなく、(日々私事や生活で忙しく政治のプロにはなれない)我々の「代表」を選ぶことが第一義的な意味合いである 。そもそも今のように世論調査が発達し、無党派層がマジョリティになった時代では、幸か不幸か、有権者の一票だけで候補者の当落が決まることも、政策が決まることもないのだ(詳細は拙著『感情の政治学』( 特に第1章に譲る)。

さらに、駒崎氏は投票に赴きさせたいがために「若者があまりに投票しないから、国の支出は子ども:高齢者で1:11というひどい状態になっている」と煽りを入れているが、これも多分に非科学的な問題含みの発言だ。社会保障制度が高齢者中心になっているのは、制度形成期の受益者が現在高齢者層になっているからで、「シルバーデモクラシー」の様相を呈しているのは多くの先進国も同様だ。そもそも投票率と社会保障給付の時系列的な増減は関係がない(詳細な反証が飯田健『東北大学プレスリリースについての疑問と再分析』でなされている)。単純にいってしまえば、若年層の低投票率と社会保障配分の不均衡は、テレビの普及率と平均寿命の延びが綺麗に相関している といったような「偽の相関」であるに過ぎない。

もっと言えば、日本の20代人口は約1500万人だから、仮にこの世代の投票率が100%あっても60歳以上の人口の4000万人には適わない。だから選挙に行くのは何れにしても無駄ということになる(むしろ女性に対しては少なくともそれ位の計算のできる賢い男性と付き合ってくれることを願う)。

もちろん駒崎氏の言質に触れて投票に行こうとする人は基本的に無党派で、この無党派層が投票すればその分、コアな自民党の票と公明党の票は減るから、こうした宣言は多分に彼の「ポジショントーク」と解することもできる。ただ、そのことを考慮しても、結果さえよければ論理は何でもよいというのは駒崎氏を含む、多くの政策起業家や若者に投票を呼びかける人々の狙う所とは異なっているはずである。

もし選挙での一票だけで政治や政策は変えることができるという幻想を振りまくのであれば、それは民主政治への落胆を招くことになりかねないから、非民主的な言動へと転化することを余儀なくされる。

では、どうするのか

簡単にいえば、選挙で政策を決めることができるという選挙至上主義は、今の政権も、マスコミも、有権者も、それぞれが陥っている最大の罠なのである

簡単にいえば、選挙で政策を決めることができるという選挙至上主義は、今の政権も、マスコミも、有権者も、それぞれが陥っている最大の罠なのである。代表を通じてのみ行動する市民が「善き有権者」であるという政治像から、まずは脱しなければならない。

実際、ポスト工業社会に入って進んでいるのは、政治の持つ意味と範囲の拡大と多様化であって、それと呼応するように、政治参加のあり方も広がりをみせている。

具体的にいえば、ネットやSNSを通じて政治的メッセージを発信することは、選挙に限らず、もはや当たり前のものになっている。日本でも、2000年代に入って選挙だけでなく、デモや陳情、不買運動、請願が政治に影響を及ぼしていると考える有権者がここ35年間で初めて増えてきている(NHK放送文化研究所『日本人の意識』)。これは脱原発デモ、フジテレビ前デモ、在特会の示威行動等々、すでに「街頭の民主主義」となって溢れ出しているのである。


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それでも、まだまだ日本の政治、そしてその政治を作っている政治観は選挙至上主義にとどまっている。2000年の段階で、選挙以外に政治参加の経験を持ったとする日本の有権者は14%に過ぎない 。これは他国とみてもかなりの低水準である(フランス43%、イタリア37%、アメリカ36%、イギリス25% )。そして、この意識と実践の落差こそが政治への不満となって表れているのではないだろうか。

そうであれば、必要なのは選挙で投票することではなく、ましてや選挙で投票されることを求めることでもなく、それ以外の政治的な実践においても活発になることだ。先の11月に九州の川内原発の再稼働が鹿児島県議会で可決されたが、そのきっかけを提供したのは商工会議所や建設業といった組織団体による県議会への陳情だった。

重要な政策を決めるのは選挙ではない。選挙でできるのは、おおよそのコンセンサスがある政策の信を問うことだけだ

つまり、重要な政策を決めるのは選挙ではない。選挙でできるのは、おおよそのコンセンサスがある政策の信を問うことだけだ。その他の分断的な政治的な課題や争点は、日々の地道な意見形成や代表への働きかけこそが重要になってくる。そのためには選挙で一票を投じるのではなく、特定の政治的目標に向けて仲間を作ったり、無党派層に向けて運動をしたり、票を組織化したり、自分たちの手で代表を送り込んだりしたりすることが意味を持つことになる。


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民主政治を作りあげていくのは、つらい作業だ。だからその道のプロフェッショナルを、私たち「主人」は「奴隷」として利用するという倒錯した関係を保ってきたのだ。しかし彼らがいうことを聞かない時は、自分たちで汗をかくしかない。そして主人が怒る時ほど奴隷が戦慄する時はない。それは選挙に行くことなどより、ずっとずっと大変なことなのだ。

著者プロフィール

吉田徹
よしだ・とおる

北海道大学法学研究科教授

1975年生まれ。慶應義塾大学法学部卒。東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。専攻は比較政治・ヨーロッパ政治。著書に『「野党」論』(ちくま新書)、『感情の政治学』(講談社メチエ)、『ポピュリズムを考える』(NHKブックス)など。

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