ポリタス

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  • Photo by yamauchi (CC BY 2.0)

自由な国で育ったと思っていた

  • 佐久間裕美子 (文筆家)
  • 2019年7月20日

海外に暮らすと、自国の良さがわかるというが、20代前半でアメリカに移り住んでから長いこと、自分はずいぶんと進んだ国で育ったような気持ちを抱いていた。

安全で、貧富の格差は小さく、ミドルクラス人口が生き生きと働いていて、表現の自由が保証されている国で育ったのだ、と。

おそらく刷り込みや幻想もあったのだろう。とはいえ、今の日本に比べたら、上に書いたようなことは、まだリアリティがあったように思う。それが、日本を離れていつの間にか、どんどん現実から遠ざかっている。

貧富の格差はどんどん拡大し、国民の過半数が「生活が苦しい」と感じている。真面目に「義務」の年金をおさめても、あてにすることはできない。今、生活が苦しいのに、どうやって定年までに2000万円の貯金ができるというのだろう?


Photo by Kanesue (CC BY 2.0)

一番気になるのは、表現の自由、報道の自由が脅かされていることだ。首相にヤジを飛ばせば警察に力ずくで排除され政府に都合の悪い質問をする記者は、冷笑されたり、無視されたりする。政権批判をすれば「嫌いなら出て行け」と言われる。政治家たちは簡単に嘘をつき、事実を捻じ曲げる。

政治家は人民に仕える公僕だったはずだ。政権の政策ややり方に疑問を呈したり、批判したりすることは、権力の暴走を食い止めるために国民の権利として許されていたはずだ。国民からの疑問や批判には応える義務があったはずなのだ。それなのに、与党の政治家たちは、批判の声を上げる人たちを見下し、冷笑し、無視して、暴走し続けている。間違いは、野党の、人民の、メディアのせいにする。

おかしいことを、おかしいと言って何が悪いのだろう。

どこで何を間違ってしまったのだろう。誰がこの権力の暴走を許したのだろう。

権力の暴走を許したのは、国民の私たちだ。

言論と報道の自由を守りたければ、声を上げなければならない。

政治家が国民に仕える存在として、国民のために働かなければならないように、私たちも選挙に行くことで、政治に参加することで、義務を果たさなければならない。

どの党が与党になろうとも、健全な民主主義は、政権や与党が暴走しないように監視する野党の存在がなければ、人民たちがその義務を放棄すれば、脆くも崩れ去るのだから。

今回の参院選を前に、私は、一度は捨ててしまいそうになった希望を少しずつ取り戻している。

野党の側から、政治のプロでない人たちが、もう黙っていられないと、選挙に出ている姿が見えるからだ。若いオピニオンリーダーたちが、若い候補たちのキャンペーンに参加し、SNSを駆使して、声を上げている姿に、国の未来に参画し、政治を自分たちの手に戻そうとする潮流が見える。


Photo by SenkyoCampShibuya (CC BY 2.0)

けれど裏を返せば、彼らを突き動かしているのは、自分たちの将来に対する危機感だろう。自由だったはずの日本は、もうそれほど自由ではない。豊かだったはずの日本は、もはやそれほど豊かではないのだ。

私は、自由に物が言える国で育ったと思ってきた。

そして、それが急速に変わりつつあることに、今この上のない恐怖感を感じている。

だから、将来に危機感を持っている人ほど、選挙に行ってほしい。選挙に行かなければ、おかしいことをおかしいと言えなくなりつつある日本に加担することと同じである。選挙に行かないことは、自分たちの未来を作る行為への参加を放棄しているのと同じなのだから。

著者プロフィール

佐久間裕美子
さくま・ゆみこ

文筆家

文筆家。1996年に渡米し、1998年からニューヨーク在住。出版社、通信社などを経て2003年に独立。カルチャー、ファッション、政治、社会問題など幅広いジャンルで、インタビュー記事、ルポ、紀行文などを執筆する。著書に「My Little New York Times」(Numabooks)、「ピンヒールははかない」(幻冬舎)、「ヒップな生活革命」(朝日出版社)、翻訳書に「世界を動かすプレゼン力」(NHK出版)、「テロリストの息子」(朝日出版社)。8月8日に文藝春秋から「真面目にマリファナの話をしよう」刊行予定。 慶應義塾大学卒業、イェール大学修士過程修了。

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