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  • Photo by Matt Wiebe (CC BY 2.0)

ひとは正義と一体化できない

  • 辻田真佐憲 (作家・近現代史研究者)
  • 2019年7月19日

毎度のことだが、国政選挙の投票日が近づくとSNS上は荒れてくる。ひとびとは血の気が多くなり、平常以上にそれぞれの正義を掲げて、激しくぶつかり合う。誹謗中傷など当たり前、敵対者はまるで虫ケラのように斬り捨てられる。「もううんざりだ」との溜息さえも、ときに「お前は敵側を利するのか?」「無関心を煽るな!」と興奮気味に問い詰められてしまうほどだ。

正義と正義を掲げるものは別

たしかに、われわれの社会には正義と呼びうるものが存在する。それは、平和でも人権でもいいし、なんなら愛国を加えてもいい。

だが、ここで注意しなければならないのは、正義は存在しても、その正義を掲げる個人や集団の振る舞いが、かならずしも正しいとは限らないということだ。ひとは過ちを犯すものだからである。この前提を忘れると、われわれは途端に過激で奇矯な言動に走ってしまう。

人種差別や性差別などに反対することは正しい。しかし、かといって、反差別を掲げる活動家の罵詈雑言や暴力行為まですべて正しいわけではない

それは、「反差別」を例に取るとわかりやすいだろう。なるほど、人種差別や性差別などに反対することは正しい。しかし、かといって、反差別を掲げる活動家の罵詈雑言や暴力行為まですべて正しいわけではない。

それにもかかわらず、「差別主義者はいくら叩いていい」とばかりに、一切妥協なく、執拗かつ無制限に攻撃を繰り返したとすればどうだろう。やがてその活動家が信頼を失うだけではなく、掲げていた正義まで疑われてしまう。

活動家のカルト化で正義が傷つく

具体的に考えてみよう。誰にだって問題発言のひとつやふたつはある。正義を掲げて活動するものも例外ではない。だが、これまで散々他人を叩いてきた手前、「あなたも差別的な言動をしているのでは?」との指摘を受け入れがたい。放ってきた批判の矢が、今度は自分に降り注いでくるからだ。

多くの場合、その活動家は苦しい言い訳に終始する。そして周囲もそれを擁護することでカルト化し、「なんだ、あいつらのいう正義とはこの程度だったのか」とオチがつく。

これでなんど正義が傷ついてきたことか。「反差別」の部分は「歴史修正主義批判」などに置き換えてもらっても構わない。攻撃的な行為に警戒しなければならないゆえんである。

冷笑との批判は当たらない

いうまでもないが、これは「どっちもどっち」や価値相対主義(ネットスラングでいうところの冷笑)のたぐいではない。

正義は存在する。

正義は存在する。差別と反差別では反差別の側が正しいし、歴史修正主義者とその批判者では批判者の側が正しい。個人的には、権力の太鼓持ちより、権力の批判のほうが正しいとも思う。だが、繰り返すが、ひとは過ちを犯す。正義を掲げるものがかならずしも正しいとは限らない。だから、そのことを踏まえて冷静に行動したほうがよい。そう述べているだけのことだ。

だが、繰り返すが、ひとは過ちを犯す。

感情的な書き込みをする前に

今回、選挙特集でこのようなことを書いたのは、過激化するいっぽうのSNS上のやり取りに疑問を感じたからである。みずからを正義だと勘違いすると、ひとはかならず暴走する。それは現実世界の政治運動でしばしば見られたことだが、ネット時代にもあらためて思い返す必要がある。

蛇足ながら、これはSNS上で政治的な意見を表明するなといっているのではない。そうではなく、気に入らない意見にたいして集団で襲いかかり、罵詈雑言を浴びせかけ、吊し上げるような行為は慎むべきだといっているのだ。

ひとは正義と一体化できない。頭に血が上ったとき、感情的な行為に踏み切ろうとするとき、少しでもこのことを思い出してほしい。選挙は大切だが、過剰な攻撃性もまた、健全な市民社会を傷つけるのだから。

著者プロフィール

辻田真佐憲
つじた・まさのり

作家・近現代史研究者

1984年大阪府生まれ。政治と文化芸術の関係をテーマに、執筆活動を行っている。著書に『文部省の研究』(文春新書)、『大本営発表』(幻冬舎新書)など。

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