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【沖縄県知事選】誰のための県知事選か?

  • 初沢亜利 (写真家)
  • 2014年11月15日

沖縄に移住して1年になる。

2012年に東北被災地の写真集『True Feelings-爪痕の真情。』(三栄書房)、北朝鮮写真集『隣人。38度線の北』(徳間書店)を出版した後、次のテーマを沖縄と定めた。

震災ナショナリズムと反北朝鮮ナショナリズム。いずれも、長引く経済低迷と貧困層の拡大に起因する鬱積した日本人の国民感情のはけ口として、恣意的に高まった軽率なナショナリズムへの警鐘としての2冊であった。

被災地は22回、北朝鮮は4回の往復で一冊となったが、沖縄は、短期といえども住んでみないと見えてこないのではないか? と漠然と直感し、昨年11月から那覇を拠点に離島も含めバイクで走り回り撮影を続けている。

日本人は、北朝鮮のことを知らないのと同じくらい、沖縄のことを知らないのではないか? と実感する日々だ。

極悪非道の北朝鮮、南の楽園としての沖縄。どちらも外交、安全保障上の国策によって一面的に塗り固められた偏ったイメージのもと、その内側にある複雑な実態に対し、思考停止に陥っているように思えてならない。

今や観光は沖縄の基幹産業であり、恩納村の海で泳ぎ、国際通りで買い物をして帰るだけの観光客に面と向かって異議をはさむ沖縄人はいない。

しかし、沖縄は決してナイチャー(内地人)を許していないし、受け入れてもいない。笑顔の接客の底に眠る深い屈辱感に気付く観光客などいるはずもない——。

日中は、様々な街中をカメラを片手にうろつき、夜が更けると見知らぬスナックの戸を叩く。そんな生活を続けている。

当然のことながら、私自身の沖縄での生活は、甲子園のマウンドに立つ巨人のピッチャーさながらのアウェイ感に満ちている。

沖縄人との対話の中で早々に気付いたことは、沖縄が基地賛成と反対で割れている、という事実は表層に過ぎない、ということだ。

翁長知事候補が束ねる「オール沖縄」とは、「ヤマト民族を許してはならぬ」という強烈な反国家的感情で括られている。本土復帰後42年繰り返してきた沖縄人同士による保革の争いは、結果として本土のためにしかならなかった、という事実を多くの沖縄人は共有している。保守政治家が共産党と共闘してまで選挙戦に臨むのは、県外から見ると奇異に写るだろうが、かほどに沖縄はヤマトに対して怒っているのだ。

1年の滞在を経て、私自身は一つの自己矛盾に陥っている。

安倍政権が牽引するジャパン・ナショナリズムへの危機感から、沖縄ナショナリズムに加担してしまうことだ。

野党不在の独裁政権と化した安倍政権にもはや歯が立たず、自主規制モードの大手メディアの不甲斐ない状況を考えると、沖縄こそが真っ向から国家に異議申し立てができる唯一残された拠点と言える。故に多くの本土知識人が翁長政権の誕生を望むのだとしたら、一体誰のための県知事選なのか? と改めて問わなくてはなるまい。

沖縄は文化人にとっても特別な場所であるらしい。次から次へと著名な文化人が来沖し、講演を行うのを目の当たりにしてきた。1年も沖縄にいるということはそういうことだ。

例えば2014年5月31日に行われた、鳩山由紀夫氏率いる「東アジア共同体研究所 琉球沖縄センター」発足を記念するシンポジウム

私は3次会まで参加する中で、本土の革新系インテリと沖縄人の意識の溝をはっきりと実感するに至った。

シンポジウムそのものは1000人近くが会場を埋め尽くし、表向き拍手喝采のうちに閉幕したが、聴衆はまるでパネリストたちの話を受け入れていないように、私には思われた。

そもそも沖縄を中心に東アジアの経済圏を構築しよう、という発想に右も左もないのだが、沖縄民族主義者も保守系の沖縄経済界の面々も来ることはなかった。沖縄を思う熱心なパネリストたちは、結局のところ沖縄人の精神構造をまるで理解できていないようだった。

親米だろうが反米だろうが「日本側」による発想を沖縄は根本的に拒絶している。保守派のアメとムチも、革新による基地反対運動も等しく拒絶される。いずれのアプローチもしょせん本土の都合によることを彼らはよくわかっているのだ。東アジア共同体構想も、あくまで本土の反米左派の都合と受けとられてしまう。2次会でパネリストらに訊いてみたが、誰も会場に漂う拒絶感に気付いてはいなかった。シンポジウム中盤の休憩時間、突如司会者用のマイクを握り「ヤマトンチュは帰れ〜!」と叫んだ過激派の男の声だけが翌日になっても私の耳奥に響いていた。会場からつまみ出されるその男への来場者の眼差しは奇人を見るそれではなく、「よく言った!」という賞賛の表情に見て取れたのは私の錯覚ではないだろう。

私自身、名護、辺野古、金武町、コザ、どこのスナックで酒を飲んでも、カウンターに居合わせた保守革新どちらからも招かれざる客扱いを受けている。

お前は何のために沖縄に来たのか? 誰のために写真を撮っているのか?

どれだけ我を顧みても、自身の不用意な発言を反芻してみても、同じ過ちを繰り返してしまう。間違いのないことは、無意識であったにせよ、発言であれ態度であれ、まず先にこちらが相手の気持ちを傷付けている、ということだ。

どこに立ち沖縄について語っているのか? 気を付けているつもりでも、本土目線による高圧的な物言いが、人ごとのような沖縄への分析が、口をついて出てしまうのだろう。

一方、暇に任せて乱読している本土人による沖縄本のどのページを開いても、あまりに不用意に沖縄人を傷付ける言葉が列んでいることにも気付かされる。

改めて問う? 誰のために沖縄を語り、沖縄県知事選を語るのか?

辺野古移設賛成と言おうと、反対と言おうと、「誰のための主張なのか?」ということに彼らは非常に敏感だ

日中、身勝手に被写体にカメラを向ける中で、夜な夜な島酒を酌み交わしながら語らう一期一会を通じて、私はきっと多くの沖縄人の尊厳を傷付けてきたに違いない。

単に寄り添い頷くだけでもなく、上から目線でものを言うことでもない、その前提にある「尊厳に対する感受性」が私には欠けているのだろう。

私は、沖縄に痛めつけられているのではない。

沖縄を痛めつけながら滞在をしているのだ——。この事実に正面から向き合うためには、おそらく私自身が変らなければならないはずだ。

滞在は残り数カ月、皮膚感覚で察知しつつある「沖縄」と、いまだ拭いさることのできない自身のプライドの間の「折り合い」をつけるべく、日々もがいている。

著者プロフィール

初沢亜利
はつざわ・あり

写真家

1973年フランス・パリ生まれ。上智大学文学部社会学科卒。第13期写真ワークショップ・コルプス修了。イイノ広尾スタジオを経て写真家としての活動を開始する。第29回東川賞新人作家賞受賞。写真集・書籍に『隣人。38度線の北』(徳間書店)、イラク戦争の開戦前・戦中のバグダッドを撮影した『Baghdad2003』(碧天舎)、衆議院議員・福田衣里子氏の選挙戦から当選までを追った同氏との共著『覚悟。』(徳間書店)、東日本大震災の発生翌日から被災地に滞在し撮影した『True Feelings』(三栄書房)。

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