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【沖縄県知事選】2014年沖縄県知事選挙と2013年浦添市長選挙の類似性について

  • 樋口耕太郎 (トリニティ株式会社代表取締役社長/沖縄大学人文学部准教授)
  • 2014年11月14日

◆“プレ県知事選”としての2013年浦添市長選挙

2013年2月10日に行われた浦添市長選挙で、無党派の松本哲治氏が当選した。現職の儀間光男氏、元教育長の西原廣美氏を破っての当選である。この選挙の論点のひとつに、もう一つの基地問題があったことはあまり知られていない。沖縄の本土復帰早々、1974年に返還が決まったはずの那覇軍港である。日米で返還が合意されてから40年が経過する今もほとんど進展がないのは、那覇軍港返還が「移設条件付き」だからだ。移設先が見つからなければ返還されることはない。そして長らく移設先の調整は沖縄県政の懸案事項だった。

那覇軍港の移設推進は、1998年に知事に初当選した稲嶺恵一氏の公約でもあった。稲嶺氏の支持を得て2001年に浦添市長選挙に初当選した儀間光男氏(現参議院議員)は、選挙期間中から、浦添市西海岸を埋め立てて、那覇軍港代替施設を受け入れることを明言していた。儀間氏が、移設反対派の革新系現職宮城健一を破ったことによって、那覇軍港移設計画がようやく具体的な進展を見せる。沖縄県(稲嶺恵一知事)、那覇市(翁長雄志市長)、浦添市(儀間光男市長)の意向が一致し、翌2002年、移設手続きを進めるための那覇港管理組合が三者共同で設立され、現在に至っている。現段階では、那覇軍港の返還と浦添西海岸埋め立て地への移設はワンセットなのである。

このような背景の中、松本氏が西海岸埋め立て及び那覇軍港移設受け入れ反対、を公約にして「まさかの」当選を果たしたのだ。長らく続いた現職儀間市長への批判票を取り込み、公開選考(公募)で選ばれた松本氏ならば、利権中心ではなく、地域を守り、環境に配慮した、市民目線の政治が実現するのではないかと期待した幅広い層から票を集めた。松本陣営の選挙スローガンは「浦添リニューアル」。結果として革新色の強い市政が誕生した。

◆しがらみを「革新」できなかった松本市長

ところが、革新色と言っても、松本市長の支持層はひとつの哲学でまとまっている訳ではない。共産党から保守系まで、平時であれば到底理念が一致し得ない者たちが「統一」市長を誕生させたのは、反現職、そして、基地移設受け入れ反対、という点においてである。当の松本氏自身すら、初めから那覇軍港移設受け入れに反対だったわけではなく、現職との争点を明らかにするという意図から選挙直前になって態度を変えたくらいだ。少々クールに表現すれば、松本陣営は「現職儀間氏を打倒し、松本市長を誕生させる」ということ以外、政治哲学、将来社会のビジョン、市政の運営戦略いずれにおいても、曖昧な点が多かったと言わざるを得ないだろう。

松本氏は、当選が決まった直後、「嬉しいという気持ちがまったく湧いてこなかった」と言う。「選挙に勝つために精一杯で、その後のことを十分に考えていなかった。当選から一夜明けて市長という重責を担うことが現実となり、これから具体的に何をすべきかを考えれば考えるほど途方に暮れて、たまらなく落ち込んだ」とも。

その後の松本市政は、彼が懸念したとおりの迷走状態となる。「支持者の本当の意図は、選挙で実際に勝って見るまでまったくわからない……」——松本市長の言葉が印象的だった。選挙であまりに幅広い支持層を取り込んでしまったため、市政を前に進めようとするほどに、支持議員は割れ、支持者の利害調整は難航し、後援会は空中分解した。松本市長が提案した副市長人事は議会で否決され、紆余曲折を経て就任した名護副市長は短期間で辞任に追い込まれ教育長への辞職勧告が議会で可決され、議会は連日空転した。それに加えて、那覇軍港移設受け入れ反対、西海岸埋め立て反対という公約の重さが、松本市長の双肩にのしかかる。実際の運用において、ここまで埋め立て推進派からの圧力が強く、一旦動き出した国家プロジェクトを覆すことがどれだけ困難か、松本市長は後になってことの重大さに気がついたに違いない。

◆辺野古と那覇軍港の違いはどこにあるのか

その結果、信じられないことが起こった。2013年の年末頃から、松本市長が自ら革新色を払拭して、自民党と完全に歩調を合わせる方針へと実質的に完全転換したのだ。自民党の後ろ盾で後援会を再結成すると同時に自民党議員との連絡会を設立した。やがて西海岸の埋め立てどころか、那覇軍港の移設受け入れにも肯定的な発言が報道されるようになり今回の県知事選挙ではすっかり「自民党員」として普天間基地の辺野古移設を支持し、仲井真知事の選挙応援に日々奮闘している

その松本市長が、最近彼のブログで興味深いコメントをつぶやいていた

・・・オナガ候補者は「これ以上の基地負担は差別である」「新基地建設は許さない」「美しい海を埋め立てさせない」ことを理由に辺野古基地建設はあらゆる手段を使って絶対阻止すると明言しています。しかしながら同時に、儀間前浦添市長との合意事項であることを理由に、那覇港湾施設(通称・那覇軍港)の浦添西海岸への移設計画を進めるとも明言しています。辺野古新基地建設は絶対ダメと言いつつ、その一方で、浦添への新基地建設は推進するのは、なぜでしょうか。辺野古と浦添との違いは何なのでしょうか。・・・

「那覇軍港移設受け入れ反対」の公約を実質的に翻した松本市長が問いかけるという、ブラックユーモアのような納まりの悪さは別にして、松本市長の発言自体は、無視できない論点を提起している。翁長氏は信念の人なのか、それとも機を見るに敏な政治家に過ぎないのか、という問いだ。

◆「オール沖縄」は茨の道を切り拓けるのか

仮に翁長新知事が誕生したとして、試練はその後だろう。リーダーの信念がこれほど試される立場もないと思うからだ。選挙前の「オール沖縄」は、選挙後「共通理念に乏しい多数の利害調整」作業に変わる。「辺野古移設反対の盛り上がり」は、攻守交代して「埋め立て推進派からの強力な圧力」という逆風に転じる。「新基地建設を許さない」という選挙スローガンは、国家プロジェクトを一地方自治体がひっくり返すという困難極まりない法務作業に引き継がれる

私が浦添市の埋め立て手続きについて調べたときにアドバイスをしてくれた専門家によると、日本では国の開発計画が動き出した後で、自治体がそれを覆した事例は(ほとんど)存在しないそうだ。翁長氏は「埋め立て申請手続きに法務上の瑕疵があれば、作業の停止を求めることができる」と発言しているが、これは裏を返せば「法律に基づいて瑕疵がなければなす術がない」という意味にも取れる。法治国家日本で、県知事にできることはそれ以外のものではないのだが、県民はそれで納得するだろうか。仮に辺野古移設を阻止することができない、という事態が生じれば、選挙で翁長氏を情熱的に支持した革新系の失望は別のエネルギーに転じるかも知れない。

沖縄の革新県政は茨の道だ。その道を敢えて選んだ翁長氏には敬意を表したいが、選挙のゴールは当選ではない、良い社会の実現である。そのゴールに到達するために重要なことは、右折か左折かを決めること以上に、そもそも車を動かすということ。最後はひとりのリーダーの生き方にかかっている。そんなリーダーが沖縄には存在するのか? 沖縄は信念に生きる人材を生み出す地域力があるのか? 今回の選挙で本当に問われていることは、そういうことではないかと思うのだ。

著者プロフィール

樋口耕太郎
ひぐち・こうたろう

トリニティ株式会社代表取締役社長/沖縄大学人文学部准教授

1965年生まれ、岩手県盛岡市出身。1989年筑波大学比較文化学類卒、野村証券入社。1993年米国野村証券。1997年ニューヨーク大学経営学修士課程修了。約8年間のウォール街での勤務後、共同経営した金融ベンチャー(JASDAQ上場)を業界最大手(当時)に導くなど、 日本と米国の金融・商業不動産事業で大成功を収める。14年前に沖縄でリゾートホテルを取得・再生したことをきっかけに価値観を大きく転換。次世代の社会と経済を、人間中心・愛の経営で再生する経営受託会社トリニティ設立、代表取締役社長(現任)。以来、人と事業と地域の再生がライフワーク。南西航空の復活を目指して12年になる。 2012年沖縄大学人文学部国際コミュニケーション学科准教授(現任)。南西航空の再生をテーマにした「沖縄航空論」、人と社会の幸せを考える「幸福論」など担当。2018年人間中心の福祉と経営を学ぶ『命の学校』を沖縄県社会福祉事業団と共同で開校し学長に就任(現任)。 沖縄社会・経済・教育・福祉・貧困を統合的に分析した論考「沖縄から貧困がなくならない本当の理由」(沖縄タイムス電子版「樋口耕太郎のオキナワ・ニューメディア」で連載中)は、県内外で100万人以上に読まれる「隠れたミリオンセラー」である。沖縄経済同友会常任幹事(2009年度~現任)。沖縄に移住して14年。

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