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【沖縄県知事選】小指(沖縄)の痛みを全身(日本)の痛みと感じよう

  • 浅井久仁臣 (キャタリスト)
  • 2014年11月17日

◆密使の死

1996年7月27日午後3時前。福井県鯖江市にある民家の書斎。

書斎の主はベッドに横たわり、近しい訪問客数名と自著の英語出版契約について話し合っていた。

話がひと段落ついた時、彼は冷たい水を飲んだ後、白い錠剤を口に含んだ。暫くするともがき苦しみ、訪問客は異変を知る。

彼はその後ひと言も発することなく、この世を去った。服毒自殺であった。

翌日の新聞各紙のおくやみ欄には、自殺の真相は明かされずに「がん性腹膜炎で死亡」と書かれていた。「謎の男」らしいこの世からの去り方だった。

男の名は、若泉敬。1960年代に国際政治学者として頭角を現し、その高い能力と米政界における人脈の広さを時の宰相佐藤栄作に買われて、米政府との「沖縄返還交渉」の密使として裏舞台で暗躍した人物だ。

その約1カ月前、若泉の姿は沖縄にあった。

糸満市にある平和記念公園を訪れ、戦没者墓苑の前の石畳に直に正座して沖縄戦の犠牲者を悼み、沖縄の人たちに謝罪する姿は、同行者によって写真に収められている。

関係者によると、若泉はその前に何度も沖縄各地を訪れて「慰霊と謝罪」をしてまわっていた。

5月には、前年に出版した著書を持って石垣島へ飛んでいた。なぜか飛行機の搭乗手続きには「吉田進」と偽名を使っていた。訪れた先は大濱信泉(元早大総長。沖縄問題等懇談会座長)の墓だった。若泉は墓前に著書を奉げると、数珠を手に膝をつき、土に頭をすり付け10分以上動かなかった。大濱のおい夫妻の前では多くを語らず、何度も「沖縄県民にすまない、すまない」と繰り返したという。

「贖罪の旅」を終えた若泉は、書斎に戻ると2万点の書籍と1万点の日記やメモを含む資料を処分した後、自死を遂げた。

残された数少ない遺品の中から前述の写真を含む数点の写真と「歎願状」と題した1996年6月22日付の1通の手紙が見つかった。歎願状の宛先は「沖縄県の皆様」と「太田昌秀沖縄県知事」だった。

事実上の遺書には次のように書かれていた。

「1969年日米首脳会談以来歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を執り、武士道の精神に則って、国立沖縄戦没者墓苑において自裁(筆者注:自殺)します」

この時、自死を決意したものの思うところがあったようで延期、結局は翌月に決行した。

遺品の中にあったもう一枚の写真は、日の丸を持った沖縄の女性の姿を写したもので、その傍には何かから切り抜いたのだろう。「小指の痛みを全身の痛みと感じて欲しい」という一文が貼られていた。

その文章は、1969年2月に衆院予算委の公聴会で祖国復帰協議会会長の喜屋武真栄が本土に対して放った「沖縄の心の叫び」で、若泉の心に響いたと推察される。

当時多感な若者だった私も、その一字一句に強く心を打たれたひとりだ。

ここで若泉の話から一旦私の44年前の沖縄訪問に話を移す。

◆占領下の沖縄へ

沖縄返還の日米合意が発表された翌年の1970年6月、私は東京・晴海から那覇に向かう船に乗っていた。米国の占領統治下にある沖縄に行くには、パスポートと米ドル持参で出入国手続きが必要だった。その事実だけで「沖縄の重さ」を感じた。パスポートには常に「沖縄の痛み」を忘れまいと、喜屋武の発言「小指の痛みを……」と書いた紙切れを挟んでおいた。それだけに、後に若泉の"遺品"にその一文があったと知って、妙な親近感を覚えた。

当時の本土の状況は、労働者や学生が頻繁に「アンポ粉砕」や「反戦」をスローガンに掲げて機動隊と衝突する一方で、ノンポリ(政治に無関心な人)が経済成長と軌を一にして層を厚くしていた。在京TV各社は、「沖縄を『核抜き・本土並み』で日本に返還する」合意にこぎつけた佐藤栄作首相の手腕を高く評価、2年後のX-DAY(返還の日)に向けて世論を盛り上げていた(結果的にそれが74年の佐藤栄作氏のノーベル平和賞受賞に寄与)。

朝日の筑紫哲也記者(後のニュースキャスター)のように「基地固定に不安」との現地の声を取り上げる新聞記者もいたが、TV番組から流れる「返還バンザイ!」の"大声"にかき消された。

お祭り気分の本土では6月23日(「沖縄慰霊の日」)という沖縄の人にとっての「終戦記念日」ひとつとっても話題にすらならなかった。当時の新聞を改めて読んだが、沖縄慰霊の日の関連記事は見当たらなかった。その前日に都内で大規模のデモがあったが、それは「反安保」を訴えるものだった。

沖縄ではヒッチハイクをして島を巡り、民家に泊めていただきながら地元住民の率直な考えをうかがって歩いた。下戸の私は泡盛が飲めないので打ち解けるのに少し時間を要したが、楽天的な私の性格が沖縄に合っていたようで、どこでも打ち解けた雰囲気が生まれた。

泡盛で気分がほぐれると、沖縄の人たちは率直な意見を私に言った。

「『本土並み』って何ですか? 核がなくなるだけじゃないですか。それだってわかったものじゃない。米軍基地を沖縄に押し付けておいてどこが本土並みですか?」

私には返す言葉がなかった。多くの沖縄の人たちにとって施政権だけの本土返還は悲願ではなかったのだ。基地から核をなくすだけではなく、基地そのものをなくす、または本土並みにすることこそが悲願だったのだ。

◆米国の策略

沖縄の人が懸念したように、1972年の本土復帰後も沖縄の実態に大きな変化はなく、「沖縄の苦悩」が和らぐことはなかった。米軍は居座り続け、支配者の立場を変えることはなかった。

返還前と変わらぬ実態と沖縄の人たちの苦悩は、若泉を真綿で首を締めるがごとく、じわじわと苦しめていったと思われる。著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』から察すると、1980年に突如東京を離れて故郷福井に隠居したのもその辺りに理由があったようだ。

徐々に若泉の中で広がり始めた「小指の痛み」は1992年、一挙に全身を貫く痛みとなった。

福井に隠棲して上京することはほとんどなかった若泉だが、その年に東京で開かれた「沖縄返還20周年記念シンポジウム」に参加した。そこで米側から示された文書(極秘だったが、後年に公開された)は若泉に大きな衝撃を与えた。自分が深く関わった返還交渉が米国の術中にはまり、完全に失敗だったことを知らされたのだ。

米側は交渉以前に「核抜き」を決めていたにもかかわらずそれを隠して譲歩材料とし、「核の再持ち込み」と「基地の自由使用」を日本から引き出していた。なのに日本側は密約という妥協はあったものの「核抜き」を勝ち取ったと胸を張っていたのだ。

交渉の失敗が結果的に米軍基地の固定化を招いたと知った若泉は、永田町や霞が関に善処を働きかけた。

しかしながら返ってきた反応は「もう済んだこと」。話を蒸し返すのは得策ではないと取り合ってもらえなかった。

何とかしたいと、若泉は「禁じ手」を使った。本を出してその中で密約の舞台裏を明らかにし、世論の喚起を図ろうとしたのだ。しかしながら、一部で話題になったものの若泉が期待した反響は生まれず、失意の中、幾度も「慰霊と謝罪」の旅に沖縄を訪れていた。そして、冒頭で書いたように、自らの手で命を絶ったのだ。

◆続く沖縄への無関心

今沖縄は県知事選が終盤を迎え、16日には投開票が行われる。だが、本土でどれほどの関心を持って見られているかと言えば、残念ながら無関心に近い。

メディアでも日中首脳会談や解散総選挙の報道の陰で時折り報道されるだけだ。それも、本質的な処に焦点をあてるのではなく、普天間問題に対する県民の審判といった単純化されたもの。

戦後70年間、米軍基地を押しつけてきた「本土」の「沖縄」への向き合い方への反省は全くと言っていいほど見られない。

若泉は自死する直前、知人に宛てた手紙で無念の気持ちを次のように表している。

文字通り命懸けで"根無し草"に堕した日本人の心魂に訴えるべく
敢えて刊行した拙著は"無視黙殺"されたままの現状であります
こちらが真剣で以って斬り込みますと鈍(なまくら)の刀では太刀打ちできませんので
政治家、官僚、学者その他皆逃げてしまいました

沖縄の現状を見て、あの世から「無駄死にだったか」と言う若泉のため息が聞こえるような気がする。

(文中敬称略)

参考文献
『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(若泉敬著 文藝春秋)
沖縄返還の代償』(「NHKスペシャル」取材班 光文社)
未来を生きる』(若泉敬 アーノルド・トインビー 毎日新聞)

著者プロフィール

浅井久仁臣
あさい・くにおみ

キャタリスト

元AP通信記者。元TBS契約戦争特派員。現在は、故郷愛知県岡崎市の奥座敷で猪や鹿と農作物を共有しながら執筆活動、スカイプで「ジジイが教える時事英語」英会話授業、「出稼ぎ」と称した講演活動、ワークショップ授業を全国で行っている。昨年末、66歳にして男子を授かる。ちなみに「キャタリスト」とは、「異なる価値観、立場の人たちの間に入り、懸け橋になる存在」という意味。

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