ポリタス

  • 視点
  • illustrated by 今日マチ子

【沖縄県知事選】沖縄への「寄り添い方」

  • 先崎彰容 (東日本国際大学准教授)
  • 2014年11月11日

◆2014年9月、沖縄

あの戦争は、つづいている。

明るい陽射しと、観光客が異国情緒をもとめて訪れるその場所で、「あの瞬間」は燻りつづけている。

世間が相変わらず、クリスマスの喧騒と余韻に浸っていた、2013年末のことである。一つの事件がこの国を襲った。沖縄の、普天間基地移設問題である。この出来事について、直接の賛否を浴びせかけるのは、政治評論家諸氏にお任せしよう。20年ちかくまえ、米兵が起こした沖縄米兵少女暴行事件が、ついに米軍基地を人口密集地から動かすこととなったのである。

沖縄の心臓をえぐるような場所、すなわち宜野湾市に普天間飛行場はある。そして、そこから5kmほど北上すると「極東最大の空軍基地」と呼ばれる嘉手納飛行場が見えてくる。2014年9月、筆者はその近くにいた。嘉手納飛行場のすぐそばには「道の駅かでな」があり、屋上はさながら、米軍の演習風景をみわたせる観客席のようである。一階の、地元の特産品を直売する売り子の物憂い顔つきとは別世界の光景、勇ましい音響が屋上をかけめぐる。沖縄県議会議員補欠選挙を間近にひかえて注目度を増したこの日、全国放送のカメラマンも観劇のためにカメラをかまえていた。

丁寧に望遠鏡まで備えつけられた客席左側から、突如、はげしい高音が響いてくる。音の場所を捜そうと眼を泳がせていると、その遥か先を戦闘機は疾走し、眼の前をゆうゆうと横切り、舞台右端までいって急旋回するのだ。今度は右から左へ舞台を下降した戦闘機は、弧を描くようにもう一度舞台を大きく一回転して、ようやく着陸するのである。

たとえば戦争中、小説家の坂口安吾は、銀座のビルの屋上で、この米軍戦闘機をみつめていた。戦闘機は私たちのつくりあげた世界から名前を剥奪し、いっさいを粉砕して飛び去った。

眼の前の沖縄は、あくまでも平穏だった。だがいっぽうで、何もかもが明け透けにすぎた。もう少し軍隊というものは秘せられてあるもの、そう思っていた期待はみごとに裏切られたのである。望遠鏡に100円さえ入れれば、着陸した戦闘機はもちろん、格納庫の内部まで見えてしまうのだった。

いまやアメリカは日本を、心底信頼しきっているのだろうか。あるいは逆に、ほとんど歯牙にもかけない部下、すべてを脱ぎ捨てて裸になっても存在すら気にしない、豪邸の奴僕のような生き物だと思っているのか。2分と間隔をおかずに、今度は3機のヘリコプターが飛来した――そうわたしの滞在日誌には記してある。

◆日常にはいった「亀裂」

基地移設問題とは、日本とアメリカに横たわる「外交問題」である。そこにはまずアメリカという他者がいる。さらに周辺諸国の政治情勢も絡まってくる以上、いきおい連立方程式が複雑になるのは当然だ。

にもかかわらず、私たちは次のような愚を、冒しつづけてきたのではなかったか。

たとえば、民主党政権が「県外・国外移設」を絶叫したのもつかの間、一転して県中部・辺野古への移転を言いだすまでに、半年しか経っていない。沖縄は政府の意志に翻弄され、根拠なき希望に固唾をのみ、あるいは落胆を余儀なくされたのである。沖縄の人びとにとって、つまりは現場にとってもっとも苦痛なのは、翻弄されること、期待と裏切りに心揺さぶられ、精神をかき乱されることにあるはずなのに。わずか半年で、政府の方針をコロコロ変え、一喜一憂させて何になる? 基地問題は外交問題である以上、国家間の力学に左右され、そもそも変わりやすい性質の問題だ。それをことさら、根拠なき理想で煽ることに、はたして正義などあるだろうか。本当に県民の心に寄り添っていると言えるか。

考えてもみればよい、ギリギリのところ、長年の基地負担の苦痛など、私たち部外者に分かるわけがない。癌患者が、術後の日々のなかでつねに抱える小さな不安、澱のように積み重なる「亀裂」の疼痛は、その人にしか分かりっこないのだ。沖縄も同じだ、現地に生きるものだけが「経験」をしている。

この謙虚さを忘れたとき、人は容易に理想論を口にすることができる。鳩山政権に非があったとすれば、自分の言葉の力を過小評価したことにあった。子供に火器をもたせたような危うさが、この政権にはあった。手にしている火器=理想論が、諸外国はもちろん、沖縄の人を左右するその大きさに気づけなかったのである。

正義や理想のもつ美しさは、沖縄の人には幻滅を、沖縄以外の人には興奮をもたらしたことだろう。部外者のばあい、興奮が終わればその場を去ればよい。忘れることも自由である。だが沖縄の人は住みつづけねばならない。つまりは現実を生きねばならない。

「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起ったことは何時までも続くのさ」(夏目漱石『道草』)——政治に過剰なロマンを期待することが、カネで県民の不満をねじ伏せるのと同じだと、なぜ気づけないのか。なぜなら確実性の乏しい飴玉をしゃぶらせるのは、カネをばらまくのと何も変わらない「一時的な慰藉」にすぎないからだ。

私たちはこうした愚挙から、離れねばならない。日常にはいった亀裂のむこう側に、眼を凝らさねばならない。

著者プロフィール

先崎彰容
せんざき・あきなか

東日本国際大学准教授

1975年生まれ。東京大学文学部卒業。東北大学大学院博士課程単位取得終了。現在、福島県いわき市にある東日本国際大学准教授。この間、塾講師、フランス留学などを経験。専門は近代日本の思想・文学史。この国の課題を、「あえて」長期的な視点から見なおし、考える思想史の魅力に取り憑かれている。著書に『ナショナリズムの復権』(ちくま新書)、『アフター・モダニティ—近代日本の思想と批評』(共著、北樹出版)。

広告