東日本大震災から4年が過ぎ、記憶の風化がマスコミなどでは語られるようになった。しかし私の周りをみれば、そんなことは少しもおこっていない。支援というより、被災者とともに新しい社会をつくっていこうとする活動も盛んだし、原発はいまなお現在形の問題である。
それはおそらくこういうことである。いまの日本は2種類の人たちに分裂している。3.11についていえば、記憶の風化がすすんでいる人たちと風化しない人々とに、である。その違いはどこにあるのか。私はそれは時間意識の違いだろうと思う。より正確に述べれば、どのような時間幅でものごとを考えているかである。
大きな時間幅でものごとを考えている人たちにとっては、東日本大震災は現在の日本の社会の限界を示す出来事であった。コミュニティを崩壊させた都市の社会も限界にきている。都市と農山漁村の関係も問題が集積している。これまでのような経済のあり方も私たちの社会を壊すばかりだ。もちろん長い目でみれば原発は、たとえ事故が起きなかったとしても未来に禍根を残す。そう考える人々にとって復興は単なる回復ではなく、いまの社会の限界を超えようとする共創的試みである。だから東日本大震災は風化しない。ところが短い時間幅でものごとを考える人たちにとっては、復興は「災害処理」にすぎないのであって、時間がたてばたちまち記憶は風化していく。
この相違は、今日の日本を覆っている病理だといってもよい。いうまでもなく財政問題や社会保障システムをみても、長期的に維持可能なシステムだと思っている人は少ない。その破綻は後世の人たちに大きな負担を強いる。だがそのことがわかっていても、関心はいまをうまく過ごすことなのである。非正規雇用が増加し、もはや戦後的な「中流」社会は終わっているのに、経済と社会の関係を組み立て直していこうという関心は、いまの経済界や政治の世界には存在していない。そんなことより四半期ごとの企業の利益確保や株価の上昇の方が関心事である。さらに述べれば、長期的にどんな世界をつくっていくのかという意識もなく、当面の国益確保や、やられたらやり返せといった調子でおこなわれているのが現在の日本の外交である。この雰囲気のなかでは長期的な課題と対峙する力は生まれてこないから、たえず長い時間を必要とする課題は風化にさらされてしまう。
問題はいまの日本に存在しているふたつの時間幅なのである。それは社会全体を混乱させている問題でもあり、東日本大震災からの復興のなかでもそのことが反映している。ここから風化していく現実と、風化しない活動とが生まれてくる。
とすると、なぜ今日の日本では短い時間幅でしかものごとをとらえられない精神の習慣が広がってしまったのだろうか。その理由は、今日の日本の社会や人々の生き方のなかから、持続と継承という価値が希薄になってしまったからであろう。市場経済は、ある種の見方をすれば、たえざる淘汰がおこっていくシステムとして展開している。企業の淘汰がおきるだけではなく、企業のなかでもある部門の整理や売却がたえずおこなわれ、そのたびに労働が淘汰されていく。持続と継承を保証しているものなど何もないといってもいいのが、今日の市場経済である。そればかりでなく、家族の継続性や地域の継続性も保証されなくなった。そのことが、つかの間の生き方を正常とするかのような社会をつくりだしてしまった。そしてこのような社会のなかでは、被災者も分裂せざるをえない。大きな時間幅で自分たちの生きる世界の復興を考え、行動していく人々と、当面の問題に拘束されていく人たちとに、である。
そして、だからこそ東日本大震災からの復興は、同時に現在の日本社会の問題なのである。復興と日本の社会の改革をひとつのものとしてとらえることができるのか、それとも風化していく「災害処理」にすぎないのかが、いまの日本では問われているのである。