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  • 論点

道なき道~ローカル・コミュニティ再生へ~

  • 玄侑宗久 (作家、僧侶)
  • 2015年3月13日

震災から4年が経ち、今はどういう状況なのかと、よく訊かれる。最近の私の答えは「個々に違いすぎて一概には言えない」ということである。

ご承知のように、GDPが上昇すれば、今の世の中ではむしろ格差が増す。現代社会は働いて得られる所得よりも株や不動産などが生み出す富の方が大きいため、それが格差拡大につながるのである。分配の不平等だけでなく、似たような状況での受け止め方に個々違いがあるせいも大きいのだろう。復興景気の波に乗って気分も上々という人もいれば、仮設住宅で自殺する人もいる現状なのだ。

平時でもこうした差はあるはずだが、今の被災地ではそれが非常に目立つのである。

震災後、被災地の人々はコミュニティの大切さを痛感した。直接に被災しなかった人々は、コミュニティ単位で支援したし、被災した人々は常に暫定的なコミュニティの仲間たちと困難に耐えてきた。

避難所というのも一時的なコミュニティを形成したのだし、その後の仮設住宅も間違いなく期間限定のコミュニティである。


撮影:初沢亜利

人生はいつだって仮住まいと達観すれば、コミュニティの離合集散も当然のことかもしれないが、なかなかそう達観できるものではない。たとえ暫定的であっても、人は一緒に耐えている人々との仲間意識によって、耐える力を得るのではないだろうか。私自身の修行時代を思い起こしても明らかだが、「自分だけじゃない」と思うからこそ耐えられた。しかも人は、辛いときほど現在の自分の周囲だけでなく、過去にまで遡る。その昔の同じような体験を知るだけで、なんとか生きる力を得たりもするのである。

その意味で、震災記録のアーカイヴ化は、後世の人々のためにも是非なすべき重要な仕事だろう。

さて、今後作られるべきコミュニティのことを思うと、まず何より復興とは、コミュニティ作りなのだという明確な視点を求めたい。神戸の震災後の復興では、おそらくその視点が明確でなかった。長田地区の商店街などもそういった視点では見られず、改革すべき旧式の町並みと見做された。だからそれらはほとんど壊され、高層ビルばかりになって昔からのコミュニティも雲散霧消したのである。


撮影:初沢亜利

ビルが高層でも、コミュニティ作りという視点が強ければ、もっと違った工夫もできたのではないか。

よく「復旧ではなく復興だ」と叫ぶ人々がいる。「この際だから進歩的な町作りを」と考えるようだ。しかし建物の器はともかく、その辺りに住む人々にとってはその時の現状こそ、長年営々と積み上げてきたコミュニティの理想型になると見るべきではないか。にわかに余所の人々が考えた人為的な町並みに血を通わせるのは極めて難しい。とにかくかつての町の姿をつぶさに憶いだし、観察してこそ、何を再建すべきなのかがはっきり見えてくるはずである。


撮影:初沢亜利

「六次の隔たり」という言葉がある。もともとはハンガリーの小説家カリンティ・フリジェフの小説『』に由来する考え方のようだが、言葉そのものは劇作家ジョン・グエアの作品に発し、実際にはイェール大学の心理学者スタンレー・ミルグラム1967年に行なった実験によって知れわたるようになった。

要するに、知り合いから知り合いへ、間に6人挟めば、およそ世界中のどんな人にもつながる、という仮説である。

この場合でも大切なのは、まずはご近所の人々のことに精通していることだ。親密なコミュニティから遠くの同じようなコミュニティにつながり、そこからまた思わぬ人々のつながりに接続していく。

思えばこうした理想的なコミュニケーションを追求したのが我々の脳だ。各ユニット内部に密接な繋がりがあり、遠くのユニットとも長いニューロンで繋がっている。長いニューロンばかりだと脳自体のボリュームがいたずらに増え、非効率的である。

ITによって世界と直につながるのも大切だが、まずはローカル・コミュニティ内部の関わりを深めることが先なのである。

このことは復興を考えるうえでも重要な示唆を含む。復興も、それまでの町を充分に考慮しないと、その土地柄と全く関係ないヴァーチャルな環境になりかねないからだ。若者ならそれでも大丈夫と思うかもしれないが、むしろ若者こそリアルを求めているのではないか。しかも被災地の高齢化進度は余所よりも速く、高齢者にとってのローカル・コミュニティは命綱にも匹敵する。


撮影:初沢亜利

復興構想会議という場では、被災地の復興におけるグランドデザインのようなアイディアがいくつも発表された。しかしそうした場がなくなってしまった現在、復興のデザインは各自治体に任せるしかなくなってしまった。もとより最終的には自治体の判断なのだが、参考にする程度の緩い提言がなされる場が、なくなってしまったのである。今や4年にわたるこれまでの経験で、早く作りすぎた素案を押し通すことにためらいを覚えている自治体も多いだろうと思う。

状況が変化したのだから、思い直すことを逡巡する必要はない。

もう一度、復興がコミュニティ作りだという観点に立てば、被災地の町で祭やお墓参りなどがどれだけ重要な存在だったのか、この4年間で多くの人が気づいてきたはずである。


撮影:初沢亜利

避難区域のお墓参りについては大熊町の避難者と東京電力の間で墓地移転費用の賠償をめぐって裁判が行なわれ、和解が成立している。一方、大熊町の住職は広野町に寺の墓地の新設を決め、来年度完成を目指し造成を進めている東京電力は2014年7月下旬、避難区域内の墓石を別の墓地に移転する場合、1区画当たり150万円を上限に賠償する方針を示したが、詳細は検討中としており請求開始時期も明らかにしていない。

しかし何より今は墓地登記が連名登記になっており、墓地移転を決議するにも登記名簿全員の印鑑をもらわなくてはならないという問題がある。その登記の在り方じたいが改正されないかぎり、移転そのものが遠い夢なのである。直接的には避難区域の墓地問題であり、コミュニティ再生のための喫緊の課題でもあるのだが、国には墓地法の改正を真剣に考えていただきたいと思う。

ことほど左様に、震災当初には気づかなかったさまざまなことに、我々はようやく気づいてきた。起こってみないと考えないことは、誰にでもあるはずである。新たな事態を前に思い直すことは思い直し、ゆらぎながら進んでいいのである。

我々の前に道はない。ゆらぎながら進んだ足跡が、振り返ったとき初めて道に見えるのではないだろうか。


撮影:初沢亜利

それにしても、「9.11」のあとの「3.11」――。この数字にはローカルどころか宇宙的とも思える連関を感じるのだが、これもまた自然のなせるワザなのだから驚く。我々はやはり、自然という勝ち目のない相手にどこまでも謙虚に、慎ましくローカル・コミュニティを作って対峙する小さな存在である。そして自然を畏れつつ恵みも享受する、じつにいじらしい存在ではないか。震災から4年経ったいま、つくづくそう思うのである。

著者プロフィール

玄侑宗久
げんゆう・そうきゅう

作家、僧侶

1956年福島県三春町生まれ。慶応義塾大学文学部中国文学科卒業。2000年、福島県の臨済宗福聚寺副住職をしながら執筆した『水の舳先『が第124回芥川賞候補となり、翌01年『中陰の花』で芥川賞を受賞。現在は福聚寺第35世住職の傍ら、福島県警通訳(英語・中国語)、福島県立医大経営審議委員、東京禅センター理事など。また京都花園大学国際禅学科、新潟薬科大学応用生命科学部の客員教授も務め、2011年4月から2012年2月までは東日本大震災に伴い、政府の復興構想会議委員も務めた。2007年、柳澤桂子氏との『般若心経 いのちの対話』で第68回文藝春秋読者賞を受賞。また2012年10月には仏教伝道協会より、仏教伝道文化賞第1回沼田奨励賞を受賞。2014年3月、東日本大震災を被災者の視線で描いた『光の山』で平成25年度芸術選奨本賞を受賞。その他の著書に『御開帳綺譚』『龍の棲む家』『四雁川流景』(文藝春秋)、 『アブラクサスの祭』『アミターバ~無量光明』『リーラ 神の庭の遊戯』『テルちゃん』(新潮社)、『阿修羅』(講談社)などの小説のほか、『荘子と遊ぶ』(筑摩選書)、『日本的』(海竜社)などの論考や随想、また『自然を生きる』『中途半端もありがたい』(東京書籍)など対談本も多い。近著は『日本人の心のかたち』(角川SSC新書)、『さすらいの仏教語』(中公新書)、『光の山』(新潮社)、『風流ここに至れり』(幻戯書房)など。

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