震災から4年が経ち、今はどういう状況なのかと、よく訊かれる。最近の私の答えは「個々に違いすぎて一概には言えない」ということである。
ご承知のように、GDPが上昇すれば、今の世の中ではむしろ格差が増す。現代社会は働いて得られる所得よりも株や不動産などが生み出す富の方が大きいため、それが格差拡大につながるのである。分配の不平等だけでなく、似たような状況での受け止め方に個々違いがあるせいも大きいのだろう。復興景気の波に乗って気分も上々という人もいれば、仮設住宅で自殺する人もいる現状なのだ。
平時でもこうした差はあるはずだが、今の被災地ではそれが非常に目立つのである。
震災後、被災地の人々はコミュニティの大切さを痛感した。直接に被災しなかった人々は、コミュニティ単位で支援したし、被災した人々は常に暫定的なコミュニティの仲間たちと困難に耐えてきた。
避難所というのも一時的なコミュニティを形成したのだし、その後の仮設住宅も間違いなく期間限定のコミュニティである。
撮影:初沢亜利
人生はいつだって仮住まいと達観すれば、コミュニティの離合集散も当然のことかもしれないが、なかなかそう達観できるものではない。たとえ暫定的であっても、人は一緒に耐えている人々との仲間意識によって、耐える力を得るのではないだろうか。私自身の修行時代を思い起こしても明らかだが、「自分だけじゃない」と思うからこそ耐えられた。しかも人は、辛いときほど現在の自分の周囲だけでなく、過去にまで遡る。その昔の同じような体験を知るだけで、なんとか生きる力を得たりもするのである。
その意味で、震災記録のアーカイヴ化は、後世の人々のためにも是非なすべき重要な仕事だろう。
さて、今後作られるべきコミュニティのことを思うと、まず何より復興とは、コミュニティ作りなのだという明確な視点を求めたい。神戸の震災後の復興では、おそらくその視点が明確でなかった。長田地区の商店街などもそういった視点では見られず、改革すべき旧式の町並みと見做された。だからそれらはほとんど壊され、高層ビルばかりになって昔からのコミュニティも雲散霧消したのである。
撮影:初沢亜利
ビルが高層でも、コミュニティ作りという視点が強ければ、もっと違った工夫もできたのではないか。
よく「復旧ではなく復興だ」と叫ぶ人々がいる。「この際だから進歩的な町作りを」と考えるようだ。しかし建物の器はともかく、その辺りに住む人々にとってはその時の現状こそ、長年営々と積み上げてきたコミュニティの理想型になると見るべきではないか。にわかに余所の人々が考えた人為的な町並みに血を通わせるのは極めて難しい。とにかくかつての町の姿をつぶさに憶いだし、観察してこそ、何を再建すべきなのかがはっきり見えてくるはずである。
撮影:初沢亜利
「六次の隔たり」という言葉がある。もともとはハンガリーの小説家カリンティ・フリジェフの小説『鎖』に由来する考え方のようだが、言葉そのものは劇作家ジョン・グエアの作品に発し、実際にはイェール大学の心理学者スタンレー・ミルグラムが1967年に行なった実験によって知れわたるようになった。
要するに、知り合いから知り合いへ、間に6人挟めば、およそ世界中のどんな人にもつながる、という仮説である。
この場合でも大切なのは、まずはご近所の人々のことに精通していることだ。親密なコミュニティから遠くの同じようなコミュニティにつながり、そこからまた思わぬ人々のつながりに接続していく。
思えばこうした理想的なコミュニケーションを追求したのが我々の脳だ。各ユニット内部に密接な繋がりがあり、遠くのユニットとも長いニューロンで繋がっている。長いニューロンばかりだと脳自体のボリュームがいたずらに増え、非効率的である。
ITによって世界と直につながるのも大切だが、まずはローカル・コミュニティ内部の関わりを深めることが先なのである。
このことは復興を考えるうえでも重要な示唆を含む。復興も、それまでの町を充分に考慮しないと、その土地柄と全く関係ないヴァーチャルな環境になりかねないからだ。若者ならそれでも大丈夫と思うかもしれないが、むしろ若者こそリアルを求めているのではないか。しかも被災地の高齢化進度は余所よりも速く、高齢者にとってのローカル・コミュニティは命綱にも匹敵する。
撮影:初沢亜利
復興構想会議という場では、被災地の復興におけるグランドデザインのようなアイディアがいくつも発表された。しかしそうした場がなくなってしまった現在、復興のデザインは各自治体に任せるしかなくなってしまった。もとより最終的には自治体の判断なのだが、参考にする程度の緩い提言がなされる場が、なくなってしまったのである。今や4年にわたるこれまでの経験で、早く作りすぎた素案を押し通すことにためらいを覚えている自治体も多いだろうと思う。
状況が変化したのだから、思い直すことを逡巡する必要はない。
もう一度、復興がコミュニティ作りだという観点に立てば、被災地の町で祭やお墓参りなどがどれだけ重要な存在だったのか、この4年間で多くの人が気づいてきたはずである。
撮影:初沢亜利
避難区域のお墓参りについては大熊町の避難者と東京電力の間で墓地移転費用の賠償をめぐって裁判が行なわれ、和解が成立している。一方、大熊町の住職は広野町に寺の墓地の新設を決め、来年度完成を目指し造成を進めている。東京電力は2014年7月下旬、避難区域内の墓石を別の墓地に移転する場合、1区画当たり150万円を上限に賠償する方針を示したが、詳細は検討中としており請求開始時期も明らかにしていない。
しかし何より今は墓地登記が連名登記になっており、墓地移転を決議するにも登記名簿全員の印鑑をもらわなくてはならないという問題がある。その登記の在り方じたいが改正されないかぎり、移転そのものが遠い夢なのである。直接的には避難区域の墓地問題であり、コミュニティ再生のための喫緊の課題でもあるのだが、国には墓地法の改正を真剣に考えていただきたいと思う。
ことほど左様に、震災当初には気づかなかったさまざまなことに、我々はようやく気づいてきた。起こってみないと考えないことは、誰にでもあるはずである。新たな事態を前に思い直すことは思い直し、ゆらぎながら進んでいいのである。
我々の前に道はない。ゆらぎながら進んだ足跡が、振り返ったとき初めて道に見えるのではないだろうか。
撮影:初沢亜利
それにしても、「9.11」のあとの「3.11」――。この数字にはローカルどころか宇宙的とも思える連関を感じるのだが、これもまた自然のなせるワザなのだから驚く。我々はやはり、自然という勝ち目のない相手にどこまでも謙虚に、慎ましくローカル・コミュニティを作って対峙する小さな存在である。そして自然を畏れつつ恵みも享受する、じつにいじらしい存在ではないか。震災から4年経ったいま、つくづくそう思うのである。