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【沖縄県知事選】沖縄県知事選――本土からの見方

  • 白井聡 (文化学園大学助教)
  • 2014年11月16日

本校執筆時の時点(11月13日)で、沖縄県知事選挙の勝敗はおおよそ見えてきたようだ。翁長雄志氏の勝利は確実で、いまや焦点は翁長氏が仲井真弘多氏に対してどれほどの差をつけるのか、大差なのか僅差なのか、ということであろう。

このような大勢が判明するなかで、衆議院が解散確実というビッグ・ニュースが入ってきた。おそらくは解散時期は来週中だろう。与党が衆参両院で過半数を握っており、かつ与党自身が争点をロクに提示できないような解散総選挙には、当然多くの批判が寄せられている。これらの批判が指摘するように、解散の主要因は党利党略である。来年には原発再稼働や集団的安全保障行使に関わる法案提出といった内閣支持率に響く課題が控えており、また統一地方選に力を注ぐ公明党に配慮せねばならないという事情もあり、長期政権を狙うにはいま解散するしかない、というのが安倍政権の結論である。

さる永田町関係者から聞いた話で私が納得したのは、解散にはもうひとつ目論見があるということだ。それはすなわち、沖縄県知事選の結果というニュースのバリューを下落させることである。翁長氏勝利、仲井真氏敗北の報せは、当然政権にダメージを与える。してみれば、衆議院解散という特大のニュースをこのタイミングで発生させることは、実に巧妙なダメージ・コントロールにほかならないのである。

こうした政治手法の悪辣さを嘆いたところで所詮は空しい。悪事を謀り実行するのは政治家の仕事の本質的な一部なのだから。むしろ、沖縄問題の重要性、その本質を理解しようとする意欲を持つ者たちは、沖縄の問題がこのようなかたちで国政担当者の行動を規定している、言い換えれば、彼らを追い込んでいる、という状況を見て勇気づけられるべきである。

これから述べるように、沖縄問題(殊に沖縄米軍基地問題)は、本土の人間にとって他人事ではない。沖縄基地問題への本土の人間の視線は、無関心/同情/差別に大別されよう。このうち「同情」が最も良心的なものと見なせようが、「気の毒だ」「申し訳ない」という心情は、いかに誠実なものであろうとも他人事に対するものでしかない。私は、あくまで本土の日本人という立場から沖縄について書く(本土の人間が気安く「現地人の気持ちになって」などと言うべきでない)が、それは沖縄の問題を「われわれ=本土の日本人」の問題として理解するためである。

私の見るところ、沖縄米軍基地問題は、沖縄の特殊な問題としてとらえられるべきでなく、日本が置かれている状況の縮図として考えられなければならない。言うまでもなく、日本は1951年のサンフランシスコ講和会議以来、独立した主権国家である、ということになっている。しかしながら、米軍基地問題を研究した多くの人々が明らかにしてきたように、依然として続く米軍駐留は占領軍的な性格を決して失っておらず、このことは世界的に類例を見ない事態である。

この点に最近あらためて光を当てた矢部宏治氏の著書、『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社)は、事柄の本質を的確に言い当てている。例えば、日米地位協定その他の取り決めによって「米軍機はもともと、高度も安全も、なにも守らずに日本全国の空を飛んでよいことが、法的に決まっている」(43頁)のである。2004年に起きた沖縄国際大学ヘリ墜落事故の際に典型的に見られるように、米軍基地に伴う危険、その暴力性に沖縄は日々さらされているわけだが、かかる状態は、本土では表面化しづらいだけのことにすぎない。かつ、こうした両国の地位は、法的に根拠づけられているのである。

かかる状態を永続させてきたのは、1945年の敗戦の結果、かつての敵国に媚びへつらい取り入ることによって自らの支配を維持してきた、日本の行政権力ならびに保守政治勢力である。彼らは、米国の庇護のもとに、米国への服従と引き換えに、引き続き統治することを許された。それゆえ、彼らが、日本国民の利害よりも米国の国益を優先する行動をとる、つまり、骨の髄まで対米従属的であるのは、何ら不思議なことではない。こうした彼らの行動様式は、沖縄では露骨なかたちで表面化するのに対し、本土ではメディアや学術界を通じて巧妙に隠される。

しかし、その差は相対的なものにほかならない。今般のTPP問題に象徴されるように、沖縄だろうが本土だろうが、日本の支配層がどちらを向いて仕事をしているのか、言うまでもないだろう。私は、かかる権力の構造を「永続敗戦レジーム」(『永続敗戦論――戦後日本の核心』、太田出版)と名づけたのである。この視角から見れば、米軍基地に苦しむ現在の沖縄の姿は、多数の基地闘争が闘われたかつての本土の姿であり、これからの本土の姿にほかならない。本土が今後米軍によって軍事要塞化されることなどないであろうが、日本全体が、軍事とは別の局面で米国による収奪に苦しむことになる(すでにそうなっている)。

以上から、今回の沖縄県知事選において、本土の視点から見て、何が賭けられた戦いが行なわれているのか、はっきりと理解されるはずだ。今回の選挙は、保守分裂が発生し、もともとは保守陣営にいた翁長氏が、共産党をも含む保革の最大限に広範な政治勢力からの支持を受けているという点で異例の構図になっている、と評されている。

それでは、ここではもはや保守対革新という対立構図が成り立っていないのであれば、何と何が対決しているのか。それは、永続敗戦レジームの護持勢力(仲井真氏)と永続敗戦レジームの打倒を目指す勢力(翁長氏)が闘っている、ということにほかならない。後者は「オール沖縄」を標榜しているわけだが、それは、沖縄が長年永続敗戦レジームの犠牲者の位置に押し込まれ、いまや全体としてこのレジームへの根本的批判者とならざるを得なくなっている以上、説得力のある立場設定である。

そして、「オール沖縄」が現実化した沖縄の政治情勢が、日本政治全体のなかで、最も先進的なものとなっていることにも、注目しなければならない。55年体制の保革対立が終焉して後の日本政治の混迷は、いまだに(!)収拾されていない。民主党による政権交代とその失敗(第二自民党化)、そして自民党の政権復帰(ならびに「第三局」を自称する政治的塵芥の目障りな跋扈)というプロセスを通じて明らかになったのは、90年代の政治改革の時代に盛んに言われた「保守二大政党制」など決して機能し得ないという厳しい事実であった。自民政権だろうが、民主政権だろうが、米国と米国の意思を忖度する日本側官僚の傀儡であることを宿命づけられており、それを忘れるならば、鳩山由紀夫氏のように主流派メディアを含む支配権力層の阿吽の呼吸によってクビにされるわけである。

このような統治構造をこれ以上続けるのか否か。日本国民がいま立たされている岐路と決断の本質はここにある。いまや、政治的意識を持った日本人が、保守を自称しようが、リベラル・左派を自称しようが、ほとんどどうでもよい。それらの立場的差異は、大局的構造においては何の意味も持たない。永続敗戦レジームと闘うのか、それともこれに唯々諾々と従いおこぼれに群がる生き方をするのか。それがいま問われている事柄であり、沖縄の政治情勢は、この根本的な対立構図に日本のどこよりも早くたどり着いている。

言うまでもなく、こうした情勢は、社共の積年のいがみ合いはもとより、保守/リベラル/左翼の不毛なレッテル貼りがいまだに横行している本土よりも、はるかに先進的である。異なる立場は大いに争ったらよい。しかしそれは、いますぐに打倒しなければならない敵(永続敗戦レジーム)を打ち倒してからの話である。鳩山政権の崩壊から今日に至るまで、結集すべき勢力は何らの本質的な結束点をつくり出せないまま時間を空費し、今回の衆議院解散を不意打ちとして受け止めざるを得なくなっている。永続敗戦レジームの支配層からすれば、まことにチョロイ奴らである。初めに述べたように、権力の中心部は本当はかなり追い詰められているにもかかわらずそれを利用できていない以上、かかる窮状は自業自得にすぎない。

本土のある革新系の人物が沖縄の革新系の人にこう尋ねたそうだ。「もともと保守系の翁長氏を革新勢力まで応援するということだが、大丈夫なのか? 翁長氏は仲井真氏のように裏切るのではないか?」と。答えはこうだったという「万が一つにはそういうことが起こるかもしれない。そのときはまた皆で引きずり降ろすまでだ。仲井真氏と同じように」——ここにまさに、本土の日本人が学ばなければならない姿勢がある

最後に、やや長期的なことについて言えば、今回の選挙結果にかかわらず、米軍が沖縄から撤退を始める可能性は低くない。それは、米国自身が、軍事コストの負担に耐えられなくなってきていることに促され、また台頭する中国とのパワーバランスにおいて妥協点を見つけることによって、「世界権力」の立場から本格的に身を退く決断を下すということである。

このような構図はすでにかなりの程度表面化しているのであり、何が何でも沖縄に米軍の新基地をつくらねばならないと考えているのは、米国政府よりもむしろ日本政府である。後者こそ、自らのボスであり最強の庇護者を確保してくれる日米安保体制を手放したくない(同時に、主権を国民の手に手放したくない!)のだ。

米国の世界政治からの撤退の進行と中国の台頭という新しい事態に対して主体的に対処するという課題に、われわれは否応なく直面させられている。沖縄での矛盾の顕在化は、この困難に対して日本国民が正面から立ち向かう出発点にならなければならない。

著者プロフィール

白井聡
しらい・さとし

文化学園大学助教

1977年生まれ。文化学園大学助教。専攻は社会思想、政治学。著書に、『永続敗戦論――戦後日本の核心』(太田出版)、『未完のレーニン――〈力〉の思想を読む』(講談社)など。

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