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【沖縄県知事選】「沖縄」と「内地」の溝はどう埋め立てられるのか

  • 吉田徹 (北海道大学法学研究科教授)
  • 2014年11月13日

「辺境」はいつの時代も、構造的に生じる様々な矛盾や逆説を一手に引き受けざるを得ない運命にある。近代の国民国家化が「中央」から始まったものである限り、国家形成の途上でマージナルな領域は不可避的に出来てきてしまう。「辺境」は、国民国家という共同体が人と領土を囲い込んで成り立つものである以上、なくすことはできない。

こうした「辺境」は、国家にとって遠心力として作用する。ヨーロッパでも、スペインのカタロニアやバスク地方、フランスのブルターニュ地方やコルシカ島、旧ソヴィエトのクリミア半島など、文化的・歴史的アイデンティティをベースに分離独立の主張がなされるのは、その国々の「エッジ(端)」に位置する領域である。イギリスのスコットランドもグレートブリテン島の北部に位置し、イングランドと独立戦争を戦ったが、かの地でも2014年9月に独立をめぐって住民投票が行われたことは記憶に新しい。

日本は、島国であるという地理的な条件も手伝って、人と領土の囲い込みが比較的にスムーズに行われた珍しいケースだ。それでも、沖縄、さらに北海道という「辺境」を形成してきた。この沖縄と北海道という国家の「エッジ」で、近隣諸国との領土問題を抱えることになったのも、決して偶然のことではない。

筆者は沖縄について特別な知見を持っているわけでも論じる必然性があるわけでもない。ただ北海道という、もう片方の辺境の地に生きている者に過ぎない。それでも、あるいは、それゆえに、沖縄との溝を埋め立てることができるのかについて思いをめぐらすことができる。

◆沖縄という「戸惑い」

とりわけ沖縄を論じる際には、日本の内地で作られ、適用されるマトリックスが通用しないことが多い。だからこそ、沖縄を論じる際には、様々な「戸惑い」が生じることになる。知事選に際して大手メディアは保守票が分裂したことをもって「もはや従来の保革対立が沖縄では通用しなくなっている」などと指摘するが、沖縄が抱えている対立の構図はもっと複雑であり、その対立を作り上げている負荷はかなり強いものであって、その限りにおいて今回の知事選は軽微な意味しか持たないだろう。

この沖縄という「戸惑い」は、相互に関連する、4つの複層的なレイヤーから成り立っている。

まず、「植民地」としての沖縄の歴史がある。首里王朝時代の沖縄は、本土、中国、韓国との貿易関係を通じた良好な関係を築く東アジアの要所であったが、その地位は琉球処分を経て、内地への従属的な地位に甘んじるようになっていった。この事実は、沖縄を語る場合に、内地=支配者と沖縄=被支配者という主従関係を踏まえない言説は受け入れてもらうのが難しい、ということを意味する。

重要なのはこうした従属関係があることによって、沖縄の問題を語る場合、好むと好まざるに関係なくその当事者性が問われることになり、結果として、問題の語られ方がさらに複雑になることにある(内地の人間やメディアは問題を理解できない、あるいは沖縄は地域エゴを主張している、といったように)。沖縄を語る場合、嫌が応でもその主語が問題になってしまう。

次に「経済格差問題」としての沖縄がある。開発庁の存在に裏付けられるように、沖縄は日本の「後進地域」に位置付けられる。県民所得を見た場合、沖縄のそれは東京の約半分、全国平均と比べて約4分の3程度に留まる。失業や非正規労働の割合も内地より高く、それに関連して離婚率も高い。

もちろん、こうした格差は沖縄内部に再現される。辺野古への基地移設問題で再び論じられたように、基地受け入れに際しての補助金や振興策で、経済的恩恵に属する地域とそうでない地域が出てくることになる。基地建設が争点化され、海上ヘリポートを受け入れるかどうかで名護市で97年に行われた市民投票、つづく市長選は市民の間に大きな亀裂をもたらしたといわれている。こうして内地―沖縄―地方―地方内という、合い連なる従属構造が生産されていくことになる。

もちろん、関連して「安全保障問題」としての沖縄がある。基地移設があろうとなかろうと、また移設によって軍事的配置がどう変わるにしても、在日米軍の74%が沖縄の18%に集中するという構図そのものは変わらない。しかも、冷戦構造を終わらせることのできないこの東アジアで、中国の軍事的覇権確立の試みとアメリカのリバランス戦略は、沖縄の戦略的価値を高める一方になっている。これは、例えば米軍兵(それも米軍兵の多くがアメリカ国内の社会的・経済的格差によって生まれている)によるレイプ事件や事故が沖縄で続いていることを考えれば、人間の安全保障を犠牲にすることによって国家の安全保障を維持しているという、笑うに笑えない矛盾をますます深めていることになっているのだ。

そう考えると、沖縄という戸惑いはもっと深刻なものになってくる。

それというのも、天皇制という「国体」の維持、そしてその上に成り立った戦後の憲法9条に代表される日本の平和主義は、沖縄を犠牲にすることで成り立ったという歴史であり、その構図は今日でも続いているという事実である。戦争中、沖縄は県民だけで12万人の死者を出したことで、結果的に本土に平和をもたらした。日本はそのまま軽武装と平和主義の道を選択したが、それも沖縄戦の当事者だったアメリカとの同盟関係とその核の傘を頼ることができたからだ。そして、沖縄は再び犠牲にされたのである。

◆沖縄ゆえの「普遍」

このように沖縄が今に至るまで抱えざるを得なくなった矛盾や逆説は、実は普遍的な問題であることがわかる。支配=被支配関係は、アメリカと日本との関係に多かれ少なかれ投射されるし、社会的・経済的な格差から生じる問題は、日本全国でますます先鋭化していく問題である。例えば若年層の2人に1人が非正規雇用であり、雇用形態によってライフチャンスが増減するという沖縄の状況は、日本社会の縮図なのだ。

安全保障にあっても、「戦後レジームからの脱却」を唱えるにせよ、日米同盟の発展的な解消を主張するにせよ、まずは沖縄の問題をどう解決するのかを経由しなければならない。そのような議論を経由しないのであれば、日本は自らの一部たる沖縄に社会的・経済的な犠牲を強いることでしか、前に進めないということになるだろう。

選挙は、その国の時々の問題が瞬間的に噴出するモメンタムである。沖縄知事選を通してそこにどのような問題を見出すことができるのか。「辺境」は辺境であるがゆえに、私たち全員に共通する問題の先端を行っていることになる。こうして沖縄は「辺境」どころか「中心」に陣取ることになり、沖縄と内地の溝はかつてないほど近くなっていく。

著者プロフィール

吉田徹
よしだ・とおる

北海道大学法学研究科教授

1975年生まれ。慶應義塾大学法学部卒。東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。専攻は比較政治・ヨーロッパ政治。著書に『「野党」論』(ちくま新書)、『感情の政治学』(講談社メチエ)、『ポピュリズムを考える』(NHKブックス)など。

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