ポリタス

  • 4章
  • Photo by 新津保建秀

原発は倫理的存在か

  • 東浩紀 (作家・思想家)
  • 2015年6月24日

原発をめぐる議論で「倫理」がなぜ問われるかといえば、それは使用済み核燃料の処理技術が確立されていないからである。「トイレのないマンション」とも揶揄されるように、現在の原発は、使用済み燃料の処理を、長期間保管しその危険性が自然に減衰するのを待つか、あるいは後世の技術開発の可能性に委ねることで成立している。いずれにせよ、いまここで処理できないものを、いつかだれかがなんとかしてくれるという「他人任せ」の態度のうえで成立しているのは疑問の余地がない。

面倒なことは他人に任せ、自分だけが利得を得る。そのような態度が「よい」ことであるか

面倒なことは他人に任せ、自分だけが利得を得る。そのような態度が「よい」ことであるかどうか。原発の倫理的問題は結局はそこに集約される。日本では福島第一原発事故を機にはじめて関心を向けたひとが多いが(筆者自身もそのひとりだが)、この問題は本質的に事故の可能性とは関係ない。経済性とも関係がない。事故がなくても、いくら経済効率がよくても、使用済み核燃料は蓄積する一方であり、後世の自然環境と人間社会の負担は増える一方だからである。


Photo by 新津保建秀

そしてそう考えると、上記の問いに肯定で答えることはきわめてむずかしい。面倒なことを他人に任せ、自分だけが利得を得る。そのような態度が、無責任で責められるべきものであることは、文化的な多様性とは無関係に、多くのひとが同意する価値観だと思われる。そうでなければ、そもそも人間社会は成立しない。

つまり、原発は(少なくとも現在の技術水準での原発は)、そもそもが倫理に反する存在なのである。わたしたちは、原発を建設し、運用し、その果実を享受することで、日々倫理に反する行動を行っている。

人間の行動は倫理のみで図られるわけではない

しかし、これは必ずしも原発の即時停止や全廃を意味しない。また、わたしたちすべてが深く反省し、罪の意識に沈殿すべきだということも意味しない。なぜなら、人間の行動は倫理のみで図られるわけではないからである。倫理に反する決定が、別の論理に基づいて支持されることはある。たとえば戦争時の殺人のように。あるいは、地球の裏側で何百万人もの飢えた子どもたちがおり、少額の寄付でその多くの命が救われることがわかっているにもかかわらず、ジャンクフードで日々膨大な食料と資金を浪費しているわたしたちの日常のように。


Photo by Kashif MardaniCC BY 2.0

それゆえ、わたしたちが考えるべきなのは、原理的には倫理に反するはずの原発が、それでもいまこの時代に存在が許される、そのときの「条件」とはなにかということである。それは便利だから許されているのか。儲かるから許されているのか。ほかに手段がないから許されるのか。議論はここから具体論に入り、哲学の手を離れる。

最終的な結論はさまざまな要素に依存し、不安定な未来予測にも左右される。たとえば、もし近い将来に画期的な技術革新が生じ、使用済み燃料の危険性が安全かつすみやかに除去できるようになるとするならば、たとえいま原発が倫理に反するように見えたとしても、むしろ建設を推進し、革新の到来を早めたほうが倫理的だということになる。あるいは、多くの人文的問題と同じく、その議論もまた再帰的な構造をもつ。

たとえば、もし仮に、ある国で原発が倫理に反するものであることを確認したうえで、それでも慎重な議論を経て稼働が不可避だと判断されたのだとしても、その事実そのものがほかの国で安易な建設を促進するのだとすれば、その副作用は議論の最初の前提を掘り崩してしまうことになる。原発そのものが素直に肯定できる存在ではない以上、わたしたちは、その是非について、未来や他者の視線も考慮しながら総合的に判断しなければならない。

以上、原発と倫理の関係について私見を述べた。ではそんなふうに言うおまえは具体的にどう考えているのかと問われれば、筆者は、深刻な福島第一原発事故を経験した日本は、ほかの国とは異なる条件を自覚し、原発の管理について特別の倫理的な役割を果たすべきだと考えている。それゆえ、原発の再稼働はしても新設はせず(リプレース含む)、自然全廃を受け入れるとともに、他方で原子力の研究にはいっそうの力を入れ、新設なしでの研究者と技術者の養成を試みるべきだと思う。しかし、その根拠について記すのは、また別の機会に譲りたい。

原発というのはそもそも「存在しないほうがいい存在」

いずれにせよ、わたしたちが忘れてはならないのは、原発というのは、21世紀初頭の現時点での技術水準においては、そもそも倫理に反する存在、つまり「存在しないほうがいい存在」であり、それゆえ稼働や新設をめぐっては慎重な議論が求められるということである。わたしたちは、すべての議論を、まずこの認識から始めなければならない。


Photo by 新津保建秀

さきほども記したように、わたしたちはつねに倫理を守る必要はない。しかし、倫理を破るには、つねにそれなりの「言い訳」が必要になる。そして、その言い訳をどれだけ精緻に、説得力あるかたちで、そして普遍的な論理に基づいて作ることができるか、そこでこそ人間の知性は試される。その点で言えば、立地自治体と経済界が望むので新設します、というのは、知性のかけらもない判断である。

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著者プロフィール

東浩紀
あずま・ひろき

作家・思想家

1971年生。ゲンロン代表取締役。専門は現代思想、情報社会論、表象文化論。メディア出演多数。主著に『存在論的、郵便的』(1998、サントリー学芸賞受賞)『動物化するポストモダン』(2001)『クォンタム・ファミリーズ』(2009、三島由紀夫賞受賞)『一般意志2.0』(2011)。編著に『福島第一原発観光地化計画』(2013)など。

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