ポリタス

  • 3章
  • Photo by Shimelle Laine(CC BY 2.0)

原発即時ゼロで失われるものー電力、外交カード、そして

  • 有馬哲夫 (早稲田大学社会科学総合学術院教授)
  • 2015年6月11日

原発議論のバカの壁

3.11のあと、あらゆるマスコミが原発の放射能漏れ事故のことを報道していたとき、TBSの夜のニュースで養老孟司氏がこのような趣旨のことを話した。

人々が原発のことを話すとき、原発賛成派は自らの立場からさまざまな根拠に基づいて自らの主張をし、反対派もまた自らの立場からいろいろな理由をあげてそれに反対し、ともに相手のいうことに耳を貸さない。これではこれからどうするか議論ができない。

要するに「バカの壁」状態で、議論どころかコミュニケーションさえ成立していない。これは何も原発のことだけではない。憲法改正にしても、消費税増税にしても、ほかの大きな問題にしても同じだろう。


Photo by 初沢亜利

もとより人はそれぞれの意見を持ち、程度の差こそあれ、他の人と違っている。だが、議論もコミュニケーションもできない状態になるのは2つの要素がある。

1. これまでの経緯を無視して先のことだけ考える
2. 全体を見ないで、部分だけを見る

1の場合は、現実を見ない、知らないという要素が加わることが多い。2の場合は、自分の考え、あるいは利害に固執するということにつながりがちだ。

そこで本論では、原発がどのように導入されたのか、その結果、それが外交や産業の面などにおいてどのような役割を果たしたのかを明らかにしたい。それによってバカの壁を越える一助としたい。

日本初の原発はイギリス製だった

人々が現実をきちんと認識でできない原因として、思い込みに捉われているということがあげられる。つまり、先入観に邪魔されて現実認識を誤るということだ。原発について多くの人々が持っている思い込みは、「日本はアメリカに誘導されて原発を導入してしまった」、「アメリカは自国の核政策に組み込むために日本に原発を導入した」というものだ

3.11以降動画投稿サイトにアップロードされたNHKの『原発導入のシナリオ』(1994年放送)という番組は、まさしくこのような思い込みを植え付ける番組だったといえる。この「ドキュメンタリー」は、アメリカが日本に原発を導入する「シナリオ」を描いていて、柴田秀利(当時日本テレビ社長正力松太郎の秘書)やCIA局員の工作によってそれを達成したというものだ。

日本のマスコミは日本が最初に導入した原発はイギリス製だったという事実をほとんど顧みない

この番組にとって致命的なのは、日本が最初に導入した原発はイギリス製のコルダーホール型だということだ。この事実を無視したために、全体として相当歪んだ歴史認識を視聴者に与えることになった。今でも日本のマスコミは『原発導入のシナリオ』式の陰謀論に取りつかれていて、日本が最初に導入した原発はイギリス製だったという事実をほとんど顧みない(例外は3.11の後に東海発電所についての記事を書いた朝日新聞茨城県支局の記者ぐらいだ)。


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では、なぜ日本はイギリス製の原発を導入したのだろうか。それはアメリカが日本の原発導入に反対し、ある程度までは妨害したからだ。なぜ、アメリカは日本が原発を導入することを望まなかったのか。それは、日本が核武装することを恐れたからだ。

アメリカはたしかに核エネルギー政策においては、日本を取り込もうとしてきた。だが、核兵器に関しては、絶対に日本に持たせてはならないと考えていた(今も考えている)。日本が原子力委員会を設置して、原発導入へと動きだしたのは、終戦から11年後、占領終結からわずか4年後のことだ。広島と長崎に原爆を投下したアメリカが日本の核武装を恐れる気持ちが強かったのは当然だ。


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今に至るまで、アメリカの日本に対する核政策にはおおきなねじれがある。つまり、核エネルギー政策においては日本を最大限に利用しつつ、核武装はさせないということだ。このようなアクロバティックなことをアメリカは日本に対して行ってきたのだ。

『原発導入のシナリオ』は、核エネルギー政策と核政策(核武装政策)とを区別せず、一括して核政策とし、アメリカはそのなかに日本を取り込もうとしたのだと主張した。だから、日本発の原発がイギリス製だという事実も無視できたのだろう。

では、本当に日本は、原発を導入するにあたって、アメリカが恐れるような考えを持っていたのだろうか。それが、彼らがイギリスから原発を輸入しなければならなかった理由だったのだろうか。

正力松太郎はプルトニウムをほしがった


Photo by 朝日新聞社

【衆議院特別委員会で英国炉受け入れ問題の所信を語る原子力委員長の正力松太郎=1957年8月10日】

1956年7月5日、当時原子力委員長だった正力は、イギリスから原発を輸入する決心を固めたのち、読売新聞ワシントン特派員の坪川敏郎に次のような正力の談話を文書にしてアメリカ原子力委員会に送らせた。これは国務省の文書に残ることになった。

イギリスと二国間協定(原発購入に伴う原子力協定)を結ぶならば、それは秘密条項を含まないものになる。

その原子炉(イギリス製コルダーホール型)はアメリカのものと比較して経済的だ。プルトニウムの使用については条件がない。原子炉は発注されれば3、4年以内に完成する。日本の使節団がイギリスを調査すれば日本の長期計画は変わるだろう。そして計画は促進されるだろう。イギリスと協定を結ぶことはアメリカを「裏切る」ことにはならない。アメリカはそれほど「心が狭くない」と正力は述べている。

アメリカが協定(動力)のなかの秘密条項をはずしてくれるならば、そして価格が競争力を持つならば、アメリカと協定を結ぼうと正力は述べている。アメリカと協定を結んだ場合、日本はプルトニウムをアメリカから買ったり、借りたりできるかどうかわからない。

ここで、正力はなぜアメリカからではなく、イギリスから原発を買うのかという理由が明らかになっている。注目すべきは、プルトニウムと秘密条項が最初と最後で2回繰り返されていることだ。これは正力がこの2つを重要視していたということだろう。つまり、アメリカではなく、イギリスから原発を購入すれば、そこから製造されるプルトニウムを日本が比較的自由に使えるということだ。また、原発やウラン燃料に関する秘密を第三者に渡すことも、また、日本がそれらを使って独自の研究をすることも、イギリスにチェックされずにすむということだ。

正力らしいのは、わざわざ読売新聞の記者を使って直接アメリカ原子力委員会に届けさせたということだ。それまで、正力は何度もアメリカに原発の導入に関する支援を要請してきたが、その都度いろいろな理由で断られてきた。正力としては原発導入を達成することで総理大臣の座を射止めたいと思っていたので、アメリカの態度に業を煮やしていた(これについての詳細は拙著『原発、正力、CIA』に譲る)。そして、この文書をアメリカ側に送ることによって決裂を覚悟するのだ。

この文書は、アメリカに誘導されて日本が原発を導入したという俗説を完全に否定するものだ。日本は自ら望んで、アメリカの反対にもかかわらず、原発を導入しようとしたのだ。そして、その理由は、原発だけでなく、プルトニウムと原発関連技術の秘密が欲しかったということだ。

このあと、正力は1956年10月1日、原子力委員会委員石川一郎を団長とする原子力平和利用視察団をイギリスに派遣した。だが、その報告を待たず同年11月19日にイギリスから原発を導入することを内定した。


Photo by 朝日新聞社

【発電用原子炉(動力炉)受け入れについて臨時会議を開いた原子力委員会=1957年8月5日、東京・原子力委員会室で】

注目すべきは、石川が東京大学助教授を経て日産化学工業社長になった人物で、原子力委員会の委員になる前年まで経済団体連合会の初代会長を務めていたということだ。1957年1月17日に日本に送った「英国の原子力発電に関する調査報告」には彼の科学者・実業家としての観察眼がうかがえる。とくにこの報告書の第2章は彼の頭になにがあったのかをよく表している。

1.   英国は原子力の重要性に着目して戦後ただちに国の事業として大規模な開発に着手し、Harwellに基礎研究所を、RisleyにIndustrial Group Headquaters(工業化本部以下Risley本部と略称する)を設置し、ここでの基礎研究と総合計画のもとにWindscaleプルトニウム生産炉およびその化学処理工場、Springfields燃料製造工場の整備拡充を図り、更にCalder Hall発電所の建設へと、強力にその推進を図ってきた。これらはすべてAEA(筆者註 イギリス原子力公社)の管理するところとなっており、関係従業員の総数約24,000人、年経費500億円以上に達する。当初は国防的見地からプルトニウムの生産に力を注いだが、同国における動力不足の実情から、プルトニウムの生産と同時に電力もあわせて発生することの経済性に着目してHarwell,Windscaleにおける経験にもとづいて大規模の天然ウラン黒鉛ガス冷却型原子炉の建設を決意し、鋭意これが実現に努力を集中してきた。その結果今回Calder Hallにおける第1期工事を完成して、去る10月17日女王臨席のもとに開所式を行い、約4万kWの電力を生産することに成功した。本炉はプルトニウム生産を主目的としているので電力経済的には能率の低いものではあるがその性能が計画値を達成していることは、基礎研究の成果が実証されたものといえよう。

(下線筆者)

この引用からもわかるように、報告書の筆者は、コルダーホール型原発を、「プルトニウムの生産を主目的とし」、「同時に電力もあわせて発生する」原発ととらえていた。少なくとも、この報告書を書いた人物の注意は、4回もその言葉が繰り返していることからもわかるように、プルトニウムに向いている。

また、研究畑出身の石川は、原発製造が工業、化学、基礎研究など多くの産業と研究所とを動員するものだということに注意を向けている。つまり、原子力発電だけでなく、日本に導入すれば、産業の発展の起爆剤になりうる工業、化学、基礎研究のあらゆるノウハウがそこに含まれているということだ。

もう一つ注目したいのは、石川が早くも高速増殖炉にも目をつけていたということだ。同じ報告書には以下のようなこの「夢の原子炉」についての記述がある。

英国は更に将来計画としてプルトニウムを使用する高速増殖炉の実現に特別の熱意を有しており、着々とこの開発を進めている。このためRisley本部においてはこの設計のみに100人のスタッフを動員しておりDounreayのPrototype高速増殖炉の現地工事はすでにその大半の工程を終っている。

民間製造会社もこの新分野には特別な関心をもち、その経過を注目している。英国としてはこの面で原子力開発史に再び大きなMilestoneを打ち樹てることを期しているが、われわれとしてもこの結果に深い関心を持つものである。

(下線筆者)

現在日本は原子炉から出たプルトニウムを再び燃料として使う高速増殖炉を作ることによって「核燃料サイクル」を確立するための巨額の予算をこの「夢の原子炉」の開発に投入しているが、この試みは、この当時すでにイギリスが始めていたものだ。

にもかかわらず、引用にもあるように、「開発を進めている」段階であって、その目途が立っていたわけではなかった。この時点では、プルトニウムは、正力にとっても、その周辺のものにとっても、まだ原発の燃料とはいえなかった。

岸信介の自衛核武装合憲論


Photo by 朝日新聞社

【衆議院予算委員会で社会党横路節雄議員の質問に答える岸信介首相 =1960年2月8日】

正力のイギリス製原発獲得の動きは、1957年2月26日に石橋湛山短命政権の後を受けて政権についた岸信介元首相に重要な対米外交カードを与えた。岸は訪米を一カ月半後に控えた1957年5月7日の参議院内閣委員会で次のような自衛核武装合憲論を展開している。

○秋山長造君 私は核兵器と憲法の問題についてごく率直にお尋ねをいたします。まず第一にお尋ねしたいことは、一体日本の自衛隊が核兵器を持つということは日本の憲法に違反するものである、こう私考えるのですが、総理大臣の御見解を伺いたい。

○国務大臣(岸信介君) 核兵器という言葉で用いられている核の兵器を(中略)、名前が核兵器であればそれが憲法違反だ、秋山委員のお考えはそういうふうなようでありますが、そういう性質のものじゃないのじゃないか。(中略)やはり憲法の精神は自衛ということであり、その自衛権の内容を持つ一つの力を備えていくというのが、今のわれわれの憲法解釈上それが当然できることである。しこうしてそれぞれ科学の発達等からやはり兵器の発達というようなものにつきましては、科学的の研究をしていかなければならぬという建前におきまして、いつまでも竹やりで自衛するという性格のものではなかろう。

(国会会議録から)

岸はこのあとも、国会で同じような自衛核武装合憲論を展開している。なぜ、岸がこの時期に自衛核武装合憲論を主張したのかといえば、それは彼の訪米の目的が日米安全保障条約改定の筋道をつけることだったからだろう。

サンフランシスコ条約と同時に結んだ日米安全保障条約は、幕末の不平等条約にまさるとも劣らない日本にとって不利な条約だった。この条約では、アメリカ軍は日本を防衛する義務を負わないにもかかわらず、日本のどこにでも駐留でき、核兵器の持込に際してもなんら制限されなかった。しかも、この条約は期限がなく、日本の側からは破棄できないものだった。

岸はこれを日本にとっても平等なものに改定するつもりだった。つまり、日本はアメリカにいくつかの基地を提供するが、それらの基地以外にいる地上部隊の大部分は日本から撤退してもらう。基地の提供と引き換えにアメリカは日本防衛の義務を負うが、日本は戦争を禁止した憲法があるので、アメリカと同盟して戦争をすることはしない。日本を核戦争に巻き込む可能性のある核兵器の持ち込みはさせない。改定後の条約の期限は10年とし、10年毎に両国で更新のための協議を行う。

この岸の日米安全保障改定案の問題点は、アメリカ軍の地上軍のかなりの部分が撤退し、アメリカの核の傘がなくなった無防備な状態で、日本が中国とソ連の脅威にさらされることだ。この両国は50年に同盟を結んでいた。

そこで、岸は現行の憲法の枠のなかでも自衛のための核武装は可能であると主張したのだ。たしかに、そう主張しない限り、岸が考えている安全保障条約改定は現実的とはいえなかった。


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【東京・産経会館で開かれた日米原子力産業合同会議に出席したアメリカ原子力産業会議のウォーカー・L・シスラー前会長ら関係者250人を招いて、1957年5月13日夕から歓迎パーティーが首相官邸で開かれた】

原発導入と日米安全保障条約改定

当時の国務長官のジョン・フォスター・ダレスも日本の再軍備については制限を設けなかった。制限を設ければ、日本は中国とソ連に抗することはできず、再軍備する意味がなくなるからだ。占領も終わり、日本が独立国になっている以上は、憲法に反しない限り、国民が望むならば日本は核武装できるし、また、すべきだということになる。


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【茶話会で幣原喜重郎衆院議長と語るダレス大使=昭和26年1月、シーボルト米大使(当時)公邸で】

しかし、いくらアメリカが日本の再軍備の強化を望むといっても、核武装となれば話は別だ。日本が核武装すればアメリカは要所に基地をおいたとしても、軍事的に日本をコントロールすることはできなくなる。

あるいは、岸はアメリカが最も恐れるがゆえに、この自衛核武装合憲論をいいだしたのかもしれない。つまり、アメリカと交渉するための外交カードだ。

アメリカが岸の望む改定案に取り合わないのならば、彼は自衛隊に核武装させると脅かすことができる。中国とソ連に対する自衛のための核武装は、アメリカが押し付けた憲法にも明確に違反するとはいえないので、独立国である日本はそうする権利があると解釈できる。

ここは安全保障条約の改定に応じ、核武装をしないことを条件に、岸に大幅に妥協したほうがアメリカにとって得策だということになる。そこにもっていくことを狙って、岸はこの外交カードを切ったのだろう。

アメリカ側は、岸の「核武装合憲発言」にかなり大きな衝撃を受けた。その結果、国務省とCIAは、岸の訪米ののちに、日本の核武装能力について本格的に調査した。以下に引用するのは、1957年7月26日にまとめられたCIAインテリジェンス報告書(国務省文書に入っている)の要旨だ。

核兵器製造能力

有能なアメリカ政府当局者は、日本が貯蔵していると最近報告したウランを原子炉の燃料に利用することに成功するなら、日本はどの国の助けも得ずに六七年までに核兵器を製造できると考えている。日本はこの邪魔になる条件(貯蔵料を報告する)を免れるためにあらゆる努力をしている。日本政府はアメリカとイギリスが核燃料の輸出に関してその副産物(プルトニウムなど)の利用について課しているような制限を受けずに大規模な原子力プログラムを行うのに十分なウラニウムを確保するための国内外のプログラムを急いで進めている。(中略)日本は最初の核燃料の供給を西側の大国から受けるための交渉を進めるため、このような供給に課された制限を受け入れているが、このような制限を課された国外の供給源にずっと頼り続けるつもりはない。

核開発に有利な要因

政府、民間の産業、研究者グループは原子力の平和利用の研究と開発を活発に進める上で一般大衆の支持を受けている。(中略)日本は原子力の領域で独り立ちする時期を見据えていて、国産の原発を含むさまざまな原子力関連の分野で研究を進めている数多くの企業に与える政府交付金や補助金を増額している。>もし日本が制限が課されていない核燃料の供給を受け、かつ、自前の原発を製造することに成功するなら、日本はそれによって核兵器に使うことができる核物質(プルトニウム 原文のママ)を得ることになるだろう。(原子炉がイギリス製の「コルダーホール型」や天然ウランを使用する型のものだった場合、その供給はきわめて多量になる)例えば、日本が建設した原発が商業発電に使用されるということになれば、日本の産業界は原発のコスト競争で優位に立つために、防衛庁にプルトニウムを含んだ産出物を購入するように圧力をかけるだろう。この理由で、そして日本の産業はやがて兵器産業に参入することが見込まれるので、産業界の指導者たちは兵器製造を含む原子力のあらゆる応用分野において日本が進歩することに好意的だ。

(下線筆者)

これを読むと、正力が、アメリカではなくイギリスから、ほかの型の原発ではなく、プルトニウムが主で電力が従のコルダーホール型を輸入することを内定していたことが大きな意味を持ったことがわかる。つまり、いくら岸が自衛のために核武装する権利があるといっても、原発もなく、プルトニウムもないのでは、アメリカもまじめに取り合わない。日本が核武装する権利があるといっても、その能力がないことは明らかだからだ。だが、イギリスから原発を輸入し、それにともなってウラン燃料も供給を受けるとなれば、話は別だ。

日本が輸入しようとしている原発と核燃料がアメリカ製ならば、アメリカはその輸入を止めて日本の核武装を封じることができよう。だが、日本が輸入しようとしているのはイギリスからだ。この国はすでにアジアに持っていた植民地と権益はほとんど失っており、日本がこの地域で再び軍事的脅威になったとしてもあまり影響は受けるとは思えない。

また、この老大国は、自国の莫大な利益を犠牲にしてまで、日本への原発と核燃料の輸出を止めなければならない義理をアメリカに対して持っていない。したがって、日本がイギリスから原発とプルトニウムを手に入れる公算は大きい。事実、時間はかかったが、手に入れている。

これによって、岸の自衛核武装合憲論は、アメリカに対して、単なるブラフではなく、強力な外交カードになった。正力のイギリスからの原発の輸入の決定と岸の自衛核武装合憲論は、ここにおいて見事に結びついている。


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原発導入がもたらしたものは原発だけではない

原発導入に関係している企業のトップは、最終的には日本が原発と核兵器を製造し、それを輸出することを目指している

この文書が示しているもう一つ重要な事実は、日本政府だけでなく、民間企業も「原子力の領域で独り立ち」することを目指していて、一般大衆もそれを支持しているということだ。しかも、民間産業の指導者たちは、やがては軍事産業に参入することを考えているので、「兵器製造を含む原子力のあらゆる応用分野において日本が進歩することに好意的だ」という。ある意味で衝撃的な指摘だが、日本への原発輸出にかかわっていたイギリス側の関係者も同じ観察をしていたことがイギリス技術省の機密ファイル「日本への原発の輸出」文書(イギリスの公文書館、所蔵)からもわかる。つまり、原発導入に関係している企業のトップは、最終的には日本が原発と核兵器を製造し、それを輸出することを目指しているというのだ。たしかに、これまでに見てきた正力、石川、岸の振る舞いから、これはまったく根拠のないものだとはいえない。  

これと同じく重要なのは、原発の製造には、きわめて広範囲の科学技術と研究成果が使われているので、イギリスからの原発導入によって、原発のみならず、かなり広い領域のさまざまな技術と研究のノウハウがイギリスからもたらされるということだ。イギリスの公文書を読むと、日本への原子力導入に関係した日英の原発関連企業団(コンソーシアム)のリストには、原子力や電力とは直接関係のない、工業、化学、鋼板、建築、電気など多種多様な企業が載っていて、広範囲の技術移転が行われていたことがわかる。原発のみに目を奪われていると、原発によってもたらされたものの全体を見失うことになる。

その後どうなったのか


Photo by 朝日新聞社

イギリス製コルダーホール型原発が東海発電所と名付けられ着工したのは1960年1月16日のことだ。だが、この原発は当初からトラブルに見舞われた。それが完成し営業発電を始めるのは1966年7月25日だが、その後もトラブルは続いていた。

これは佐藤栄作政権の外交政策にも大きな影響を与えた。1964年10月16日、中国が新疆ウイグル自治区のロプノール湖で核実験を成功させ、日本は核武装すべきかそれともアメリカの傘にとどまるべきかという決断を迫られた。

佐藤は秘密裡に学者グループに検討を命じたが、その報告書「日本の核政策の基本的研究」は後者を選択すべきと勧告した。理由は国際原子力機関の査察のもとでは東海発電所から算出されるプルトニウムを軍事転用できない、また、転用できたとしても年間100キログラムで一発しか製造できないのでは中国相手に核戦争を戦うことはできないというものだった。

日本は1957年に国際原子力機構に加盟し、その後のイギリスとの交渉のなかで、保障措置(兵器転用を防ぐための)を輸出国のイギリスではなく、アメリカ主導の国際原子力機構が行うことになった。だから、このあとはアメリカもさかんに日本に原発を売り込んだ。だが、この制限は機構から脱退することで逃れることができる。

逃れられないのは量の問題だった。研究グループは東海発電所から年に100キログラムのプルトニウムが算出できると想定したが、実際はトラブル続きでそんな量は生まれていなかった。もっと大きいのは、最初の発電所建設で大きくつまずいたために、その後も原発建設を進め、プルトニウムの産出量を増加させていける自信が持てなかった。つまり積極的選択ではなく、消去法によりアメリカの傘の下にとどまることにしたのだ。

原発は日本が持つ強力な外交カードであり続けている

にもかかわらず、日本はすぐには核拡散防止条約には加盟せず、これを迫るアメリカに対して長期間にわたり外交カードとして使った。日本がこれを批准したのは、1976年6月のことである。原発はこの後も、そして現在も日本が持つ強力な外交カードであり続けている。原発と外交についての詳しいことは、拙著『原発と原爆』に譲る。

前にみたように、日本は原発導入を契機に、「原子力の領域で独り立ち」するという大いなる夢を抱き、そのための技術交流を盛んにしてきた。イギリスから移転した技術とノウハウは現在の日本の幅広い産業分野で独自技術として結晶している。皮肉なのは、この動きの一番後ろについていたのが、東京電力などの電力業界だったということだ。

現在日本はベトナム、トルコ、リトアニア、フィンランド、ヨルダンに原発を輸出しようとしている。これによって他国とは違う外交関係に入ることになる。中国と韓国という隣国が日本に敵意を向け、執拗に反日プロパガンダを世界に流しているだけに、味方は多いほうがいい。

ゼネラル・エレクトリックと並ぶ原発メーカーだったウェスティングハウスの原発部門は、現在東芝の傘下にある。ということは、原発メーカーに関連した、日本の工業、化学、鋼板、建築、電気などの企業も世界をリードする技術とノウハウを蓄積しているということだ。

日本の電気メーカーを窮地に追い込み、自動車メーカーを追撃している韓国産業は、アメリカとの原子力協定により、原発の輸出に制限がある。したがって、原発関連分野においては日本に対抗することは今のところできない。原発をまだ輸入する側にある中国もしかりだ。この意味は大きいのではないだろうか。

即時原発ゼロで失われるもの

このように原発導入の経緯を知り、それが外交や産業に果たした役割を見た後で、現在の原発の問題をどう考えればいいだろうか。いえることは、原発を電力供給とエネルギーコストの面からだけ論じることはできないということだ。それは冒頭で指摘したように、これまでの経緯を無視することに加えて、部分だけを見るということにつながる。

即時原発ゼロにすると、電力だけでなく、もっと重要なものも多く失われる

原発は現在日本が持っている強力な外交カードであり、軍事産業に参入するかどうかは別として、産業発展のためのシーズでもある。代替供給源や代替エネルギーが見つかったとしても、これらの役割において原発を代替できるわけではない。もちろん、これらの役割を損ねないために、原発の状況を3.11の前と同じにする必要はないだろうが、だからといって即時原発ゼロにすると、電力だけでなく、もっと重要なものも多く失われることを覚悟すべきだ。


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また、この問題は、現在の問題でもあるが将来にもかかわる問題でもある。将来なにが起こるか誰も予測がつかない。1000年に一度の地震がまた起こるかもしれず、予想をはるかに超えた中国の軍事大国化が起こるかもしれない。また、韓国と中国の沿岸部に原発が林立して、そちらのほうがより大きく深刻な問題を生むようになるかもしれない。一方、現在の核廃棄物を燃料に変える発明がなされるかもしれないし、放射能を無害化する技術がでてくるかもしれない。

大切なことは、将来のために、未来の世代のために、選択肢をできるだけ多くしておくことだ。避けるべきことは、今持っている選択肢を失うことだ。原発を一定程度利用するという国民的コンセンサスがえられるならば、原発賛成派と反対派の間にあるバカの壁は越えられるのではないか。

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著者プロフィール

有馬哲夫
ありま・てつお

早稲田大学社会科学総合学術院教授

専門はメディア研究と現代史。原発に関しては、『原発、正力、CIA』(新潮新書)、『原発と原爆』(文春新書)、「日本最初の原子力発電所の導入過程」『震災・核災害の時代と歴史学』などの著作がある。

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