ポリタス

  • 論点

声の温度——地方政治と平易な言葉

  • 千木良悠子 (作家、演出家)
  • 2015年4月12日

政治に疎い自分が、まず選挙といわれて咄嗟に思い浮かぶのは、有吉佐和子の『複合汚染』だ。1974年から朝日新聞朝刊小説欄に連載されていた、このルポルタージュともエッセイとも、あるいは変わった形態の小説とも、にわかにジャンル分けしがたいこの作品は、型破りなまでに独特で、読むほどに痛快で、とにかくひどく面白い。しかも当時の大ベストセラーであったというのだから驚きだ。本当に面白いものが売れていた。昭和の日本、捨てたもんじゃないね! と、なぜか上から目線で双手を挙げて讃えたくなる、そんな名著『複合汚染』のオープニングが、筆者が婦人運動家・政治家の市川房枝が参議院議員選挙に立候補したときの応援に携わった経験をつぶさに綴ったものであることは、やや意外であるようにも思われる。

環境汚染の危機を訴えるのが主眼であるはずの、この作品だが、最初の数ページはずっと、青島幸男がヨーロッパ旅行に行ってしまうから市川房枝の応援に駆けつけてくれないとか、都知事に立候補する前の石原慎太郎と街頭で鉢合わせして会話したとか、衆目の好奇心をそそるような、選挙に関する話題が延々と続く。環境汚染の話題が出てくるのはだいぶ後、市川房枝の跡継ぎとして参議院選挙の東京地方区に立候補した紀平悌子と、その応援に駆けつけた評論家の吉武輝子が、選挙演説で、排気ガスや工場の煙の企業の垂れ流しによる大気汚染、また食品添加物の問題等を取り上げ、また公害が新生児の健康に与える影響について訴える、というシーンに至って、そこでようやく、なのである。

Photo by goodhughCC BY 2.0

要は、筆者が環境問題に本格的に興味を持つに至るまでを、選挙の応援活動中のエピソードを折り混ぜながら、時系列順に描いていったのが、この最初のシークエンスであるのだろうが、面白いのは、筆者が必ずしも選挙活動に関与することに積極的ではなく、自分は政治嫌いを標榜してきたと書いている点だ。

「私が応援する2人は無所属の候補であり、私自身もどの政党とも関係を持っていない。私は政治に関心を持てば持つほど、それこそ敬遠したい気持が募ってくる。(中略)私の生活感覚は極めて保守的なので、いわゆる進歩的文化人の仲間にも入れてもらったことがない」

続けて、60年安保について書かれている箇所がふるっている。「およそ国際条約で無期限などという篦棒(べらぼう)なものはなかった」のだから、期限をつけることは必須だったのに、その期限が切れるせっかくの機会であった70年安保は、60年にあれほど熱意を示した人々が鳴りをひそめてしまい、かなりの覚悟で臨んでいた政府与党も拍子抜けするほど世の中は平穏で、日米安保条約は自動延長されてしまった、というのが筆者の弁だ。

「こういうところが、私には到底理解できないのだ。10年前には改定さえいけなかったのに、10年後の自動延長に、どうして国民運動が起きないのか。いったいその理由はなんだったのだろう」

Photo by goodhughCC BY 2.0

なんとも率直な意見であり、読み手に伝わりやすい文章だと思う。安保問題に関する事情は様々にあろうが、筆者の「極めて保守的」という生活感覚が、複雑な政治的事象を、ここまで物の本質を射抜くような言葉に還元し得ることに、驚きを覚えずにはいられない。昭和の作家が、それも中間小説と言われるような幅広い読者層を持つ書き手が、いかに偉大であったかを思うと気が遠くなる。そもそもじゅうぶんに博識でありながら、さらに旺盛な好奇心と曇りない眼差しとで、書くべき対象にその都度向かっていき、どれほど複雑なテーマを扱っていようと、広範な読者に伝わりやすい言葉で叙述することを決して怠らなかったのだ。

現在、これほどまでに読みやすくまた説得力のある言葉で、政治や社会について語れる書き手がどれほどいるだろう。「多様性」という便利な題目の下に、特定の専門分野に関する知識や情報を提供できる人材や媒体は増えていても、それらを有吉佐和子が自ら「極めて保守的」と表現したような、地に足のついた感覚できちんと理解し、血肉の通った平易な言葉に還元して、社会に率直な疑問を投げかけることができるだろうか。それとも、有吉佐和子は不世出の天才で、あんな人物はなかなか現れなくて、もう100年ぐらい経たないと、あそこまで痛快に小気味よく、社会問題について書ける作家は現れないのだろうか。戦後文学史における有吉氏の評価には未だにきちんと定まったものがない、なんて話も聞くけれども(有吉佐和子がこんなに好きなのって、もしかして、自分だけなんだろうか)。

Photo by kanegenCC BY 2.0

世の人は、平易で率直な言葉を使うことも受け取ることも、そんなに得意ではないのかもしれない。

今回の統一地方選では、自分の住んでいる東京都世田谷区の区議会議員・区長選挙がある。近所の図書館に行ったついでに、世田谷区の広報誌をもらってきた。

丸いのである。何が丸いかと言うと、印刷物の文字の字体だ。

広報広聴課編集の「せたがや」、男女共同参画センター情報ガイド「らぷらす」、教育委員会の出版物「せたがやの教育」、産業政策部都市農業科の出版物「せたがや農業通信」、デートDV防止のための印刷物、セタガヤボランティアネットワークの出版物「セボネ」。どれもみんな丸い。

丸いのではあるが……内容は、丸くない(のも、ある)。

4月1日発行の「せたがや」の1面の特集は4月から始まる「世田谷区がん対策推進条例」のお知らせ。下段には「危険ドラッグで命を落とすな、命を奪うな」。めくって2面3面には、平成26年度補正予算成立や、耐震化助成制度変更に関する告知。4面の「せたがや情報」には、「猫の不妊・去勢手術費用の一部を助成します」って、知らなかったな〜! オスの場合は3000円の助成だって。「在宅医療廃棄物の処理方法」として、「血液・体液の付着したガーゼや脱脂綿等」を「外から見えないように新聞紙等に包み、ビニール袋に密封して可燃ごみとしてお出し下さい」という箇所もある。臨海斎場の火葬料の変更通知も出ている。病気に医療、年金、死。地域政治は人の生き死にと密接な関わりがある。丸いフォントも、お年寄りから若者まで、幅広く興味関心を抱かせ、手に取ってもらうために使用されているに違いない。視力に関わらず読めるようになるべく字も大きくして……。でもやっぱり、文章は法律用語が入ってくるから、どうしても固い。

「『建築行為に伴う緑化の制度について』区内で、一定規模以上の建築行為等を行う場合、みどりの基本条例や都市緑地法に基づく届け出(申請)が必要です。制度や手続きについて詳しくは、「提出の手引き」(総合支所街づくり課、都市計画課、みどり政策課、区のホームページにあり)をご覧下さい」

丸いフォントで、スペース満ち満ちに文が並べてあるから、どうしてもわかりづらい。こういった出版物も、昔はもっと読みづらかったんだろう。だいぶ親しみやすくバリアフリーになったのだろうけど、でも気になるのは、やっぱり文章の固さに対して字体がやたらに丸いこと。それから項目のタイトル等にひらがなが多用されていることだ。

なぜこれら出版物の情報がどうしてもわかりづらいかというと、法律用語を駆使した文章からは語り手の顔が見えないからだ。誰が語っている言葉なのかわからない。そのため、字体や仮名、全体のデザインといった形式がその文章の性格を決める手がかりとなる。人は文章を読むとき、その意味だけを追っているのではない。例えば有吉佐和子が甲高い声で意気軒昂に語っている、その様子を思い浮かべて人は文章を読む。声を聞く、と言った方が良いかもしれない。その声の瑞々しさ、生きている物の気配、命の温度に心惹かれて、人は文章を読むなどという面倒くさい行為に渋々着手し、そして、いつしかのめり込んでいくのである。いくらタイトルをひらがなにして、簡単に読めますよと手招きしても、文字を読むというのは書き手が想像する以上に読み手にとって煩わしい行為だ、本当に必要としている人の目には届かないかもしれない。広報誌のタイトルにひらがなを多用することが、逆にサービス過剰となって、読み手を遠ざけている可能性もある。

Photo by Les ChatfieldCC BY 2.0

出版物のデザインやフォーマットの善し悪しについては分からない、個人的な好みもあるだろうし、本当にきっとかつて、それこそ『複合汚染』がヒットした頃に比べるとずっと判読しやすく手に取りやすいものになっているのだろう。けれども、区民葬儀券、高齢者肺炎球菌予防接種、特定健診・長寿健診を受けましょう、重度障害者(児)日常生活用具給付事業、世田谷区奨学生の募集、中小企業者の方へ~支援事業等をご利用ください……ここには死があり、病があり、労働があり、人間の生活がある。この一綴りの広報誌の文字の向こう側に、この地域に関連する数十万、数百万の人々の姿が影絵のように揺らめいて、紙が区の焼却炉で焼かれると同時に影たちも燃え尽きていってしまうような、そんな気すらする。私は今回この原稿を書く機会を得て初めて、広報誌「せたがや」を手に取って読み、区民葬儀券なるものを利用すれば、「特別区統一の協定利用料金で葬儀を執り行うことができ」るのを知った。大人でも5万1000円で火葬してもらえる……自分が死んだときのことをあんまり考えたことがなかったが、なんとなく安心な気がした。日々区政に真っ向から取り組んでいる役所の方々も、区民がこんな体たらくじゃ浮かばれないだろう。悲しいのは、誰かの情熱を懸けた働きがコミュニケーションの分断のためにスムースに機能しなくなることだ。顔の見える政治を、などという言い方は鼻につくほどの常套句だが、この多様化の名の下に世代や経済状況や属するコミュニティによって、細かく生活スタイルを分断された時代、何らかの形で孤立を余儀なくされた数多の人々にとって、必要になってくるのは、出版物の文字のデザイン以上に、率直で平易な、温度のある人間の言葉であり、声なのだと思う。

所詮視野の幼稚な自分が心配するほどのことはないのかもしれない。今年の寒い冬の間じゅう、近所の公園でほぼ毎日、女性のホームレスがビニールシートでくるんだ大量の荷物に埋もれてベンチに座ったまま動かないでいるのをよく見かけて、かなり高齢の人なので気にかけていたのだが、春が訪れ梅の花が咲く頃に、いつものベンチで彼女が同年代の男性3~4人に囲まれてビールなんか飲んでいるところに出くわした。拍子抜けした。めっちゃ人気者だった。

Photo by yamauchiCC BY 2.0

現職の世田谷区長である保坂展人氏は『闘う区長』という本を出版していて、ぱらぱら読んでいたら『複合汚染』に言及している箇所があった。本書で脱原発を掲げている現区長は、『複合汚染』のベストセラー化で食の安全への関心が高まったことをきっかけに、トラックで知り合いの農家から安全な野菜を買ってきて東京などの都市で得る、といういわゆる「産直運動」が起きたことを例に挙げ、それと同じことを今、電力でできる時代ではないのかと述べている。震災の翌年に出た本で電力関連の話題が多いが、実際に取り組んでいる日々の公務のあらましが具体的に文章で読める形になっているのは投票する側にとっても判断材料が増えて良いかもしれない。

私が今自分の住んでいる地域に最も望むこと、それは――区立のとても大きな劇場が一週間空いてると言われたのでつい借りてしまったんですけど、もう少し小屋代抑えられないだろうか、スポンサーがついてるか助成の下りている団体じゃないとなかなか公演が打てないという演劇界の事情はどこか歪んでいるんじゃないでしょうか、ということ――であるが、それはどんなに訴えてもただのおねだりになってしまうので、三軒茶屋のあの駅前の古い商店街、もう再開発決まってしまったみたいだけど、本当になくなってしまうのでしょうか。提灯が2階のベランダに並べて飾ってある古い飲み屋に楽しい思い出があるのだ。有吉佐和子が、政治嫌いを標榜しながらも市川房枝の長きに渡る活動の年月を思ってその応援をし、70年安保の折に60年安保を思って、過去の出来事を忘れなかったように、温度や手触りのある古い記憶だけが私たちを人間として長く生かすのではないかと、そんな気がするのだ。

著者プロフィール

千木良悠子
ちぎら・ゆうこ

作家、演出家

著書に「猫殺しマギー」、「だれでも一度は、処女だった。」(よりみちパン!セシリーズ)他。2015年6月25日(木)〜28日(日)、主宰する劇団SWANNYで、三軒茶屋世田谷パブリックシアターにて、ドイツ映画監督ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの戯曲「ゴミ、都市そして死」「猫の首に血」、二本立て公演を予定。詳細は→www.swanny.jp

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