ポリタス

  • 論点

雪解けの春からはじまる「食」――それを支える人の営み

  • 亀井善太郎 (東京財団ディレクター・研究員)
  • 2015年4月10日

先日、初めて、雪解けの春を見ることができた。雪が積もる地域の春は駆け足でやってくるという。雪が解け、水となり、川に流れ込む。川の水量は増し、水の流れる音は大きくなる。雪の下に隠れていた草の緑が見えはじめる。これだけの雪の下で生き抜いてきた強さが伝わってくる目にまぶしい緑だ。

そんな雪解けの春、まだまだ雪が残っていても、春が待ちきれないかのように動き出す人たちがいる。

まず種もみを植えて苗床にする、その田んぼだけでも雪を除けようとユンボに乗るおじいちゃんがいた。それを軒下からじっと見つめるおばあちゃんがいた。一人暮らしばかりになってしまったこの集落では、数少ない夫婦が揃う所帯でもある。

Photo by 亀井善太郎

もう少し山を下りてみたら、雪はだいぶ解けていた。そこには、雪が解けたところから田んぼの畔を作り直しているおじいちゃんがいた。見渡すかぎり、そこに一人。ただ静かに畔を作っている。今年の米作りはここから始まるのだ。

Photo by 亀井善太郎

私たちの日々の食を支える農とはこういうものなのかもしれない。飽食の時代、あたりまえにあると思っている食を辿ってみれば、ここに至る。

めまぐるしく変わる自然を相手にしながら、厳しくも恵みをもたらす自然に対する畏敬と感謝の念を忘れず、今年も自分が健康で同じ段取りに臨むことができることに喜びを感じながら、少しずつ人の手を加えていく。それがどこにでもあって続けられてきた「農の営み」だ。どんなに努力を積み重ねたとしても自然がわずかに変化するだけで期待が裏切られることもある、それでも、そうした積み重ねが無ければ秋の収穫には決してつながらない、それを承知で今年も米作りを始める人たちがいる。

Photo by Adam KahtavaCC BY 2.0

選挙の話をするのになぜ、こんな話からはじめたのかと言えば、ふたつの視点がある。

ひとつには、誰しも食に無縁ではいられないのだから、「食の営み」はわたしたちに何かを考えさせるきっかけになることが、しばしばあるかもしれないということだ。どんなに都会に暮らしていたとしても、僕も、あなたも、日々の食の原点はここにつながっているのだということを知っておいてもよいのではないかと思う。

「人の営み」とは何かしらの日々の努力の積み重ねのことであり、それがささやかな幸せにつながっている

そして、もうひとつには、仕事の種類や生きている場所はそれぞれに違うかもしれないが、「人の営み」とは、そもそも、ここに挙げてきた農業のような、何かしらの日々の努力の積み重ねのことであり、それがささやかな幸せにつながっているということではないかということだ。生きていく上で積み重ねていく努力とか、その努力が何かのはずみでうまくいかなくなること、それでも努力が何かにつながるときの喜び、そうしたことは、農業に携わらないとしても、誰しも人生の中で思い当たることがあるだろう。どこかに何かを感じているとすれば、人が生きていることの意味について、誰しも、そんなふうに何かしら直観しているからなのかもしれない。

日々の暮らしや営みから離れる政治

もちろん、自分自身でささやかな幸せを獲得するための努力は続けねばならない、しかし、うまくいかないこともあるかもしれない、突然の嵐に巻き込まれることもあるかもしれない、そんなときに支える力として期待されるのが政治である。政治は人の幸せにつながるもののはずのものである。不幸を小さくし、無くしていくためにある。うまくいかないことをみんなが助け合う仕組みも担っている。

つまり、人それぞれのささやかな幸せと何かしらつながっている、その幸せを守るものになっている、それが主権者一人ひとりから見た政治に期待する役割である。

では、いまの政治、とくに今回の統一地方選の場合はどうだろうか。今回の多くの地域での争点は「人口減少」、「地方消滅」、「地方創生」だ。それぞれの意味については、他に譲りたいが、これらの四文字熟語は、上記に挙げた日々の努力を積み重ねる営みやささやかな幸せと何がつながっているのだろうか。

冒頭に書いた、おじいちゃんやおばあちゃんのいる集落のことを、こうした四文字熟語を使う人たちは「限界集落」と呼ぶ。「高齢化率100%」と実際にそこにいる具体的な人の顔を思い浮かべず数字だけで定義する人も多い。そこに生きる人たちへの尊厳も、自らの食を支えていることへの感謝の気持ちもそこにはない。

Photo by *suika *CC BY 2.0

「地方消滅」や「消滅自治体」という言葉もしばしば聞かれるが、これは誰にとっての問題なのだろうか。実際のところ、直接的にはそこにある集落や地域の問題ではない。たしかに人口は減り、若者は都市に出て行き、それぞれは1年ごとに1歳ずつ年をとったとしても、そこに生きる人がいる限り、日々の営みは続けられる。実際、その地域の歴史を振り返れば、そうやってその集落は続いてきたことがわかるだろう。

彼らは人口を増やせば問題は解消すると人口増加策を競いあうが、それが地域の暮らしをよりよいものにするものとは直結しない

人口が減ることはきわめて蓋然性の高い将来予測だ。だが、それによって本当に困るのは、地域住民が少なくなり支えてもらいきれなくなる市役所や町役場の機能に過ぎない。自治体が消滅して困るのは、一義的には議員や地方公務員たちなのかもしれない。彼らは人口を増やせば問題は解消すると人口増加策を競いあうが、それが地域の暮らしをよりよいものにするものとは直結しないことを見れば、問題の本質ではないことは明らかだ。

自分の暮らしや地域の営みの視点から、その暮らしを少しでもよりよい方向に、地域に暮らす人たち自身が変えていく。そのきっかけであるはずの地域の政治を根本からひっくり返してしまっているのが、いまの国が主導している「人口減少」であり「地方創生」だ。

全国の市役所や町役場は、国に認められて、補助金を受けられることが「正解」だとして(一部には確信犯もいるが……)、本来、地域の行く末を決める主権者である住民のほうを見ずに、国のほうばかり見て政治を進めている。デモクラシー(民主主義)とは、主権者である住民が主体となって自らの地域のことを決め、自らが担い(必要に応じて行政の支援を得て)、そして、その結果の責任を負うものであるという根本の原則を忘れている。

あなたは、それぞれの地域に暮らす1人の主権者として、いまの自分の住む自治体の政治がどこを向いて進んでいるのか、そこだけでもよく見ておいたほうがよい。国の補助金を受けとるにしても、その必要性は、地域に暮らす主権者の意志によって判断されなければならない。

それぞれの候補者たちの視線の先には、そういうものはあるのだろうか。そうやって見ていくと、主権者である自分たちのほうを見ている候補者は決して多くはないかもしれない。ただ、そこであきらめてはいけない。市議会議員や町議会議員であれば、だいたい数千票という当選ラインから考えれば、あなたの1票の価値は極めて重いわけで、そのチャンスを逃してはならない。この選挙を自分の意見をしっかり言う機会、これからの政治に関わっていくきっかけととらえてみてはどうだろう。この人はきちんと聞いてくれる。4年間の任期でいろんな対話ができそうだ、そう感じることができる候補者と出会うことができるかもしれない。

Photo by Atsuhiko TakagiCC BY 2.0

選挙だけが政治ではない。本当に大切なことはその先から始まる。ただ、選挙は政治と関わる大切なきっかけのひとつだ。政治はなんのためにあるのか、誰のためにあるのか、そこを改めてよく考え、そして、試してみよう。政治を一部の人たちのためだけのものにしてはいけないのだから。

著者プロフィール

亀井善太郎
かめい・ぜんたろう

東京財団ディレクター・研究員

1971年神奈川県伊勢原市生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、日本興業銀行(現みずほ銀行)、ボストン・コンサルティング・グループ、衆議院議員等を経て現職。みずほ総合研究所アドバイザー、特定NPO法人アジア教育友好協会理事等も兼ねる。非営利・独立・民間の政策シンクタンクである東京財団において、統治機構や政策形成プロセス、経済・財政・社会保障等に関する政策立案とその実現に資する研究と発信を続けている。また近年は公共政策の立場から企業と社会の関係でもあるCSRに関する研究にも取り組む。

広告