私たちは「敗戦」を迎えたあの時代から続く一本のタイムラインの上をいまも変わらず歩き続けている。振り返れば戦前、戦中、戦後に隔たりはなく、かつての日常の連続の上に私たちの日々の暮らしがあるのだ。多くの犠牲と惨禍をもたらしたあの不条理な戦争の記憶は時の経過と共に薄れ、風化が進んでいる。しかし、ひとたび沖縄へ目を向けると、私たちが「風化」という言葉によって、いかに冷たい目線の投げかけに加担してしまっているか気づかされ、強い自戒の念を感じざるを得ない。なぜ、沖縄にあれだけの数の米軍基地が集中しているのか、私たちは知っているだろうか。報道で伝えられる「沖縄の怒り」という言葉の源流に想いを馳せることができているだろうか。
私は米軍基地問題と向き合い続けてきた沖縄の歴史を知るために、先日、元沖縄県知事の大田昌秀氏をはじめ沖縄戦を体験した方々の元を訪ねた。
大田氏は1925年生まれの90歳。学徒兵として沖縄戦の戦場に駆り出され、およそ20万人もの人々が犠牲になったといわれる過酷な戦闘状況の中でなんとか生き残った。戦後は、研究者として、そして政治家として基地問題に関わり続けてきた。沖縄の米軍基地の歴史と内幕を一本のタイムラインで途切れることなく語ることができる、数少ない人物だ。
普天間基地辺野古移設の問題の本質は、戦前、戦中、戦後の歴史を紐解かなくてはなかなか見えてこない。読者の皆さんが歩むそれぞれのタイムラインとの接続をはかるため、まずは大田元県知事の証言をシェアしたい。
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敵の米兵よりも日本軍の方が怖かった
――「戦後70年」というテーマで、米軍基地問題の源流を探る取材をしています。大田さんは1945年3月、沖縄戦の当時はどのような状況でいらしたのですか?
大田:当時、僕は19歳で、首里にある師範学校の生徒でした。戦争中、沖縄には12の男子中等学校と、10の女学校があったんです。それらすべての学校で、10代の生徒たちが戦場に出されました。普通は、そういう若い人たちを戦場に出すためには国会で法律をつくらなければいけません。ちょうど昭和20年6月23日――いまの慰霊の日ですね、日本本土で「義勇兵役法」という法律ができて、男性は15歳から60歳まで、女性は17歳から40歳までの人たちを戦闘員として戦場に出すことが初めて可能になりました。ところがそれは、沖縄戦での組織的抵抗が終わってからできた法律なんです。ですから、沖縄の若者は法的な根拠もないまま戦場に送り出されて、犠牲になりました。兵隊ですと「巻脚絆」といって、足を保護する布があるんですが、私たちは素肌で戦場に出なければならなかった。銃1丁と120発の銃弾と2個の手榴弾を持たされて、半袖半ズボンで戦場に出されたんですね。
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――大田さんは、手榴弾を抱えさせられて戦闘に投入されたと聞いています。そのときは、どんなお気持ちでいらっしゃいましたか?
大田:私たちは「皇民化教育」といって、天皇のために命を投げ出すのが人間として一番幸せなことだと叩き込まれていました。一方で、本土なら東京・神田とかに古本屋がいっぱいあって、自由主義、民主主義といった思想の本を密かに読めたんですが沖縄にはそういう本屋がなかった。県議会で「危険な思想の本は上陸させない」と決議されたので、船でも持ち込めなかったんです。ですから私たちは、皇国史観しか知りませんでした。「この戦争は欧米の帝国主義からアジアの人々を解放する神聖なる戦争だ」という言葉を鵜呑みにしていたんですね。試験管の中に入れて純粋培養するように、天皇制教育を徹底的に教わり、戦場に出たときもそのまま信用しておったわけです。
Photo by USMC Archives(CC BY 2.0)
ところが、戦争が日本軍にとって不利な状況になってきたときに、戦場で旧日本軍の沖縄住民に対する対応を否応なしに見せつけられました。
兵隊は、敵軍に気付かれてしまうから「子供を殺せ」と言う
例えば、住民がいたるところに壕を掘って家族で入っている。そこに本土からきた兵隊たちが来て、「俺たちは本土から沖縄を守るためにはるばるやってきたのだから、お前たちはここを出て行け」と言って、壕から家族を追い出して入っちゃうんですよね。一緒に住む場合でも、地下壕ですからそれこそ表現ができないほど鬱陶しい環境で、子供が泣くわけです。そのときに兵隊は、敵軍に気付かれてしまうから「子供を殺せ」と言う。母親は子供を殺せないもんだから、子供を抱いて豪の外に出ていき、砲弾が雨あられと降る中で母子は死んでしまう。それを見て今度は、別の母親が子供を抱いたまま豪の中に潜む。すると兵隊が近寄ってきて子供を奪い取り、銃剣で刺し殺してしまう……。そういうことを毎日のように見ているとね、沖縄の住民から「敵の米兵よりも日本軍の方が怖い」という声が出てくるわけです。
Photo by USMC Archives(CC BY 2.0)
――それは大田さんもご覧になった光景ですか?
大田:もちろん。こういう光景を見ていると、「一体この戦争とは何だ」と思わざるを得なくなって、旧日本軍に対する信頼感が一挙に失われたんですね。
私が戦争から生き延びて真っ先にやろうとしたのは、自分の中の疑問を明らかすることです。なぜこんな戦争に自分たちは巻き込まれたのか。なぜ僕らのクラスメートや同僚たちが、こんなにたくさん死ななくちゃいけなかったのか。彼らが家庭ももたないうちに死んでしまった理由を、どうしても明らかにしたいと思いました。それから20年間、アメリカの国立公文書館に通い続けて沖縄戦の記録や資料を手に入れ、分析した結果、日本がいかに間違ったことをしてきたか、なぜ沖縄が巻き込まれたのかがわかりました。
――戦後、沖縄の本土復帰の過程において、米軍基地が沖縄にどんどん移されていきますよね。時を経ていま、辺野古の問題が解決されないまま立ち往生しています。大田さんならこの問題をどう解決していきますか?
大田:いま、世論調査をしますと、沖縄住民の83%が普天間飛行場の辺野古移設に反対しているんです。本土でも辺野古基地移設に反対する人は少しずつ増えていますが、全国世論調査の結果を見るとまだまだ賛成反対両派が拮抗しています。私には本土の人たちが中身を知らずに賛成しているように見える。つまり、ただ辺野古へ基地を移設すればいいという話ばかりが言われて、どういう基地ができるかを知らないんですよ。
公文書が教えてくれた辺野古問題の原点
1995年5月に少女暴行事件が起きました。それを受けて沖縄県民8万5千人が抗議大会を開いたら、日米両政府が慌てました。「SACO=沖縄に関する特別行動委員会」というのを組織して、沖縄の基地を閉鎖する考えを発表したんです。そこで日米両政府が出した中間報告と最終報告を丹念にチェックしたら、日本政府の報告書に、普天間飛行場を5分の1に縮小して辺野古に移すと書いてあった。現在の普天間飛行場の滑走路の長さは約2600メートルですから、それを約1300メートルに縮めて前後に100メートルの緩衝地帯を設け、長くても1500メートル程度に縮小して移すと。建設期間は5~7年で、建設費用は5000億円以内というのが、日本政府の当初の方針だったのです。ところがアメリカ政府の最終報告では、MV22のオスプレイを24機配備し、これが安全に運行するために2年の演習期間が必要なので、建設期間は少なくとも12年。建設費用は1兆円、運用年数40年、耐用年数200年になるような基地をつくると、はっきり書いてあるんです。そんなものができたら、沖縄は未来永劫基地と共生しないといけなくなります。だからこれは絶対にダメだと言いたいわけです。
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いまも吉田元首相の発言が生きている
本土では知られていませんが、吉田茂元首相が当時の外務省条約局長の西村熊雄に、サンフランシスコ平和条約の締結条件を早くアメリカ政府に出すよう指示した記録があるんです。その中に「琉球は将来日本に返して欲しいが、いまは米軍が軍事基地として使いたがっているから、99年間のバミューダ方式で貸す」という内容があるんです。私はそれを見たときに、アメリカとアメリカの意向を忖度する日本から「耐用年数200年」という発想が出てくるのは当然だと思いました。いまも吉田元首相の発言が生きているんでしょう。
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普天間飛行場の移設先について、日本政府は最初、辺野古とは言わなかった
私は沖縄県知事になって、まず最初に沖縄県公文書館をつくりました。アメリカで修士号をとった沖縄出身の優秀な学生を県の職員に採用して、アメリカの国立公文書館に9年間みっちり通わせ、沖縄の関連で公開解禁になった資料を片っぱしから送ってもらって資料を集めました。普天間飛行場の移設先について、日本政府は最初、辺野古とは言わなかった。「沖縄本島の東側海岸」といってごまかしていたんですね。それが辺野古と決まったときに、当然疑問に思って公文書資料をチェックしてみたんです。そうしたら驚いたことに、意外な事実がわかった。
そもそも普天間飛行場の辺野古移設は、1996年に橋本総理と私との間で始まった話だと思っていました。同年4月の米クリントン大統領の来日前に、秩父セメントの諸井虔会長が、橋本総理の密使として私に会いに来られたんです。「2人きりで会いたい」という話だったので、会ってみたら、諸井さんは「友人の橋本が『沖縄が基地を引き受けてくれない』と言って、苦労している。なんとかならないか」と言ってきたんですね。それで私は「申し訳ないが、われわれは沖縄戦を体験している。200年も存在し続けるような基地を引き受けることは到底できません。基地を引き受けたら、次に戦争が起きたときに真っ先に沖縄が戦場になってしまう。総理が安請け合いして『沖縄が基地を受け入れる』と言ってしまったら、アメリカは契約社会だから、その約束を守れなければ信用が傷つきます。だから、あなたが本当の友人だったら、橋本総理に率直に、沖縄は基地を受け入れる気はまったくないと伝えて、総理を傷つけないようにしてください」と申し上げたんです。
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ちょうど同じころ、1996年1月に沖縄は「基地返還アクションブログラム」という要望を日米両政府に出しました。2001年までに1番返しやすいところから10の基地、2010年までに14の基地、2015年には嘉手納飛行場を含めて17の基地すべてを返還してくれという要望です。そうすれば、沖縄は基地のない平和な社会を取り戻すことができる。これを日米両政府の正式な政策にしてくださいと提出したら、諸井さんが「2001年までに10の基地を返してくれとのことだが、最優先で返して欲しい基地はどこか?」と尋ねてきたので、「それは普天間です」と言いました。なぜなら普天間は周辺に16の学校があり、病院や市役所もあって、さらにクリアゾーンという本来建物をつくったり、人間が住んだりしてはいけない区域に普天間第二小学校ができていて、3000人が住んでいる。だから一番危険な普天間を真っ先に返してくださいと言ったら、2015年までに普天間を加えた11の基地を返すことで、日米両政府が合意したんです。すごく喜びました。ところが後になって、そのうちの7つについては沖縄県内に移設するというんですよ。移設するときにはコンクリートでつくるので、耐用年数が尽きるまで米軍が使えてしまう。だからわれわれとしては、「県内に7つも移設するのは到底納得できません」と返したわけです。
アメリカ政府は沖縄が日本に復帰して、日本国憲法が適用されると、沖縄県民の権利意識がますます強まって基地の運用が厳しくなると考えた
ところがですね。県の公文書館にある資料を読むと、別の事実が書いてあったんです。1953年から1958年まで、米軍が沖縄の農家の土地を強制的にとりあげて軍事基地に変えていった時代に、「島ぐるみの土地闘争」といわれる、沖縄の歴史始まって以来の大衆反米行動が起きました。そうした中で、沖縄の日本返還の話が1965年ごろに始まるわけです。アメリカ政府は沖縄が日本に復帰して、日本国憲法が適用されると、沖縄県民の権利意識がますます強まって基地の運用が厳しくなると考えた。アメリカにとって一番重要な基地は嘉手納以南の人口が一番多い地域に集中している。それをひとまとめにしてどこかに移そうと計画を立てて、アメリカのゼネコンまで入れて西表島から北部の方まで全部調査したんです。その結果、辺野古のある大浦湾が一番いいという結論になった。なぜかというと、水深の浅い那覇軍港は水深が浅くて航空母艦を入れられないんです。ところが辺野古のある大浦湾は水深が30メートルあるので航空母艦を横付けできる。そこで滑走路だけではなく、海軍の巨大な桟橋をつくって航空母艦や強襲揚陸艦を入れ、さらに反対側には核兵器を収容できる陸軍の弾薬庫をつくる計画を立てたわけです。
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半世紀前に計画した基地が、全部日本の税金でできるようになった
2009年、民主党に政権交代が起きたことを機に沖縄返還交渉時に交わされた密約が明らかになりました。沖縄が日本に復帰して憲法を適用されても、アメリカの基地の自由使用は認め、いつでも核兵器を持ち込めると約束されて安心していたのです。しかし、密約が交わされた当時、アメリカはベトナム戦争で軍事費を使ってしまって金がなく、建設費も移設費用もすべて米軍の自己負担だったため、この計画は放置されたのです。そしていまになって――実に半世紀ぶりにこの計画が息を吹き返しているわけです。現在は移設費から建設費、維持費、思いやり予算まで、みんな日本の税金で賄っています。米軍としては、こんなにありがたい話はない。半世紀前に計画した基地が、全部日本の税金でできるようになったわけですから。米軍が辺野古を推すのにはそういう背景もあるんです。
辺野古移設は日本国民全員に関わる問題
大田:普天間の副司令官・トーマス・キングがNHKのインタビューに答えて、辺野古には軍事力を20%強化した基地をつくると言っています。いまの普天間飛行場は爆弾を積めないので、米軍のヘリ部隊がアフガン戦争やイラク戦争で出撃するときは嘉手納に行く必要があるからです。辺野古に移したら、陸からも海からも自由に爆弾を積める施設をつくるのだと。MV22オスプレイも、24機配備する。そうすると現在の普天間飛行場の年間の維持費は280万ドルだけれど、辺野古に移ったらこれが一気に2億ドルに跳ね上がる。これを日本の税金で賄ってもらおうと言っているわけですよ。つまり、辺野古に基地をつくったら、耐用年数200年で1兆5千億円という関西新空港並みの予算規模の基地になる。本土の皆さんはこういうこと――自分たちの頭の上にどれだけの財政負担がおっかぶさってくるかを知らないから、「賛成」と言っていられるんです。
――本土の皆さんには何を訴えたいですか?
辺野古基地移設の問題は、場所を移すかどうかだけではなく、どういう基地をつくるのかということも含めて真剣に議論していただきたいですね。1兆5千億円かかると言われている財政負担が「思いやり予算」という名目で、どれだけ自分にかかってくるのかも。そういうこともきちんと考えないと、とんでもないことになりかねないと心配しています。そんなに財政のゆとりがあるなら、福島県の復興を1日でも早く進めるべきですよ。
日本本土の国益の名において、沖縄は絶えずモノ扱いされ、政治的取引に利用され続けてきました
沖縄は本土復帰するまで、憲法が適用されていませんでした。それはつまり、憲法にうたわれている人間の基本的な権利が担保されていない――人間が人間らしく生きていけないということなんです。日本本土の国益の名において、沖縄は絶えずモノ扱いされ、政治的取引に利用され続けてきました。ですから、沖縄には怒りが満ち満ちているわけです。
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私たちには考え続ける責任がある
大田元知事へのインタビューを終えた翌日、私は普天間基地を利用するアメリカ海兵隊の将校にインタビューするため、宜野湾市や沖縄市にまたがるキャンプ・フォスターを訪ねた。取材に応じてくれたルーク・クーパー中尉に「辺野古は唯一の選択肢だという日本政府の方針は本当か?」と尋ねた。かつて森本敏元防衛大臣が「軍事的には沖縄でなくても良いが、政治的に考えると沖縄が最適な地域だ」と語っており、つまり本土では受け入れの理解が得られないから沖縄にあるという趣旨の話をして話題になったことがある。
クーパー中尉はまず辺野古移設に関しては「日本政府が選択して決めたことです。私たちにとって大切なのは任務が適切に遂行できる場所であるということ。それが担保されればどこへでもいきます」と語った。その上で、「海兵隊は空陸任務部隊というのが基本になっており、航空部隊と地上部隊、兵站部隊の3つが一緒に活動しています。中心的部隊である航空部隊は岩国や普天間にあり、韓国、ハワイにも分散して配備されていますが、それぞれの地域から必要な任務を遂行できるようになっています。先日のネパール大地震の際には、フィリピンで訓練をしていた部隊が急遽ネパールの支援に向かいました。海兵隊というのは、状況に応じて臨機応変に迅速に対応する部隊です。そのための条件として、3つの部隊が常に緊密に活動する必要があります」と説明。辺野古移設は日米両政府の合意事項であり、日本政府の選択だと海兵隊は強調する。
私は今後も取材を継続することで沖縄との関わりを続けたい。日米安保反対、ベトナム戦争反対といった反戦・反米運動の作用から米軍基地の多くが本土から沖縄に移されていった。自分の庭からやっかいな問題が取り除かれればそれで良かったのか。私たちには考え続ける責任があるはずだ。
Photo by 初沢亜利
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