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『救出──3.11気仙沼 公民館に取り残された446人』(猪瀬直樹著)第1章全文掲載

  • 猪瀬直樹 (作家)
  • 2015年3月11日

今回、お話を伺った猪瀬直樹氏の新刊『救出──3.11気仙沼 公民館に取り残された446人』(河出書房新社刊)は、東日本大震災発生直後、気仙沼市の中央公民館に取り残された人々が救出されるまでの緊迫と奇跡を描いたノンフィクションだ。本書は綿密な取材の元、公民館に取り残された人たちの視点に立って、絶望の淵から全員が救出されるまでの一部始終を描き出している。氏のご厚意により『救出──3.11気仙沼 公民館に取り残された446人』の第1章「上さあがれ!」を転載させていただく。

第一章 「上さあがれ!」

1

「金曜日だから忙しいぞ。わかっているな、夜遅くなるからね」

鈴木修一は長身で表情もおだやかで、髪にていねいに櫛を入れ、身だしなみもよく、どこから見ても大手企業のエリートサラリーマンという風情である。彼の仕事にとって金曜日から週末は特別の意味がある。

だがいま実際に鈴木が見渡している部屋は東京都中野区の六階建てのマンションの正面入口の脇から入る地下室なのだ。中野駅北口から少し離れている。六十平方メートル、家賃十五万円の小さなオフィス、総勢十人ばかりの零細企業である。

四十八歳の鈴木社長が社名を一歩一歩、堅実に生きる人生、地道に登って行く、という意味合いのステディライズと付けたのは二十年前、バブル経済崩壊後に会社を興したときであった。バブル崩壊のトラウマを心の内側に静かにしまい込み、背筋を伸ばしている。

まず全員で大きな声で「経営理念」をとなえる。

一、人生の真の価値を探求し心を豊かに輝かせること。

二、いっそう人と社会の役に立ち今以上に必要な存在となるよう努力すること。

三、創造する喜びを知り精神性を高め高度な技術を追求していくこと。

真剣である。二十代から五十代、その十人が結束していなければ吹き飛んでしまうかもしれない小さな会社である。

マンションは目抜き通りではない。いつものように作業着を点検する。腰に電動ドリル用のドライバー・ビットを、太いものから細いものまで幾種類も差し込む。作業用の帽子も被った。帽子の正面にOKAMURAとローマ字があり、左胸にカタカナでオカムラ、左腕にもオカムラの腕章をつける。トヨタのミニバン、黒いハイエースがマンションの駐車場に五台停車しており、それに便乗して出発する。

オカムラというオフィス家具大手の企業名はよく知られている。会社に置かれた事務机の端のほうに製造会社のブランドラベルが張られていることに気づく人もいるだろう。新しいビルが建設され、テナントが入居契約をすれば、オフィスのレイアウトも決まり、事務机や椅子や収納庫(ロッカー)、書棚、応接セット、パーテーションの位置も定まる。

広々とした真新しい空間は誰もおらず何も存在しない、不思議な未だ命の宿らない場所である。そこに机があって人がいてパソコンが置かれ、軽いざわめきが入ると生きた世界に変容する。そういう時間の経過のなかの一部の隙間に鈴木の仕事が存在する。

まずスチール製のキャビネットが搬入される。搬入は運送会社の仕事である。搬入された事務机などは搬送しやすいかたちで梱包され送られて来る。箱を開いて梱包を解き、組み立てたり据え付けたりする下請けの仕事が鈴木社長の会社に割り当てられる。据え付けを専門とする会社なのだ。

特別な技術を要するわけではないが、据え付けはつねに見知らぬビルであり、要領と段取りを組む手際が勝負である。オフィスの広さ、形、組み立てるものの数など、どんな場所であっても物もの怖おじせずにとっさに判断できる才覚、勘のようなものがこの道二十年の鈴木には備わっている。

その日も早朝から堅実に駒を進めるつもりである。地味な仕事でも、堅実にやればわずかでも利益が出る。大儲けは求めないし、求めようもない仕事なのだ。オフィスの机や椅子、ロッカーなどの据え付け仕事は、新規のビルだけではなく、企業の組織替えにともなってのレイアウトの変更も多い。月曜日から新しい組織を立ち上げることが多いため、据え付けの業務は土曜日や日曜日は休日ではない。日曜日の夜から作業に入って、深夜から未明までかかることも珍しくない。だから定休日は火曜日なのである。それも顧客の要請があれば休みにはならない。

二〇一一年三月十一日午後二時四十六分、高田馬場にある早稲田大学の新しい研修棟の六階で、据え付け作業をしていた。大きい揺れが長くつづいた。窓から見ると電線が波を打ち電柱がメトロノームのように左右に揺れていた。それでもたいしたことではないと考え、作業をつづけた。免震施工の新しいビルのせいなのか、低層の階で作業をしていたためなのか、深刻な事態ではないと感じた。

据え付けが終わったのは午後四時ごろだった。

つぎの仕事が午後六時から入っていた。西新宿の高層ビル街へと向かった。高層部分にパークハイアットホテルが入っている東京ガスのビルである。都市開発本部の組織替えで、レイアウトを変更するというのだ。二百人から三百人ほどが働いているフロアの一部で、八十人分ぐらいの机などを移動させる役割が待っていた。

早稲田の新築ビルではそれほど心配しなかったが東京の震度は五弱とかなり激しいものだったと途中のカーラジオで伝えているので、親会社オカムラの工事センターに指示を仰ごうと、携帯電話をかけた。しかし、つながらない。

その前に妻には電話が通じていて無事を確認しているし、小学校四年生の長男も幼稚園児の長女も大丈夫と妻から伝えられている。事態はそれほどのことではない。ならば発注主に迷惑をかけてはいけない、仕事をやっておこう、ととりあえず西新宿の東京ガスのビルを目指した。午後五時ごろにはハイエースはなにごともなく着いた。

黄昏たそがれの空を仰げば西新宿の高層ビル群は安閑と背の高さを競って突っ立っている。人工的な空間が空を割いているのであり、自然の脅威などもろともせず存在感を漂わせていた。ただ途中、新宿駅に近づくにつれ渋滞が始まり出し、のちに帰宅困難者と呼ばれることになる通勤・通学あるいは買い物にきた人びとが黒い塊となって膨らみはじめている。

目的の東京ガスのビルに着くと、一階がすでに帰宅困難者の避難所のような状態になっていて、人の群れであふれている。

「これじゃ、作業はできないよな」

運転中の部下に同意を求めるような言い方をしながら、方向転換を指示した。新宿から中野区の会社までは二十分ほどの時間があれば充分だった。自分のオフィスで待機して、オカムラの工事センターに連絡をとればよい、と判断した。ところがふだんなら二十分の距離なのに二時間近くもかかった。渋滞の車のなかで二カ月ほど前に買ったばかりのスマートフォンでSNS(ソーシャルネットワークサービス)のツイッターの画面を見始めた。

会社に近い中野区の自宅に帰ったのは午後九時前だった。テレビの震災報道の画面を食い入るように見つめていると、気仙沼市の火の海の映像が流れている。二十代に仙台に四年も住んでいて、気仙沼へもよく飲みに行った。仙台にも気仙沼にも知り合いがいる。その人たちの顔が浮かんできて、いても立ってもいられない気持ちになってテレビの画面と交互に使い慣れないツイッターをいじってみた。ツイッターは初心者で使い方にあまり習熟していない。

この仕事を始める前の三十代半ばで、人生がまったく切り替わって新しく再生したと思っています。わたしはいわゆるバブルの時代に青春を送ったひとりです。

高校に入学してからも、夜は六本木に毎日遊びにいくような生活を送っていました。毎日毎日が楽しくてしょうがなかったですね。池袋や新宿など、歓楽街でいろいろなアルバイトをして過ごしていました。一九八〇年代です。

そうこうしているうちに、お決まりのように学校を中退しました。

若い女の子に過激な服装でサービスさせる喫茶店が、当時流行りました。エロを売りにしたそういうタイプの店は大阪で生まれたといわれていて、新宿にもたくさんの店ができました。そんな店を手伝っているうちに、年端もいかないのにそういう稼業のプロのような顔になり、仙台に店を出すので、行ってくれないかと頼まれた。まだ二十代になったばかりのころです。

仙台の歓楽街の国分町に店を出しました。生粋の仙台人は気位が高くて、ちょっととっつきにくかったですが、東北の中心都市ですからね、よそ者も多くて、そういった人たちと親しくなりましたよ。

いまはなくなっていますが、仙台にも当時は「大箱」と呼ばれる大きなキャバレーがありました。そうしたところで働くママさんとか、その筋の人たちとか、若かったせいもあってかわいがってもらったな。白い靴を履いていましたよ。外見から、もうカタギには見えませんでした。そうそう、やくざ映画の『仁義なき戦い』に出て来る若い衆みたいな。

大震災の被災地になった石巻市や旧古川市(現・大崎市)にも遊びに行ったね。歓楽街で地元の若者と、遊びがてら、けんかもしましたね。まあ、若かったですからね、元気がありました。

いまでも忘れられないのが、クラブのママやその取り巻きの人に連れて行ってもらった、気仙沼です。

生まれて初めて、サンマの刺身を食べさせてもらった。最近は東京でも食べられるようになりましたが、当時は東京で魚の「アオモノ」の刺身なんて食べたことがなかったですからね。

仙台市がある宮城県は、競馬や競艇などギャンブルができるところがまったくないので、当時は好きだった競馬をやりに、わざわざ山形県の上かみの山やま競馬に毎週のように通いました。そこでも友だちができて。その競馬場もいまは廃止でなくなっております。

とにかく仙台が気に入りましてね、住み着こうとまで思っていました。

しかし、商売がうまくいかなくなりました。仙台の人たちはまじめなのか、大阪や新宿で流行っているからといって、同じサービスは当たりませんでした。それと、喫茶店で働いてもらう女の子の採用がなかなか難しくって。東北の大都市といっても狭い社会なので顔を知られるのが嫌だったんでしょうかね。

それでも仙台には四年ほどはいましたが。いまでも懐かしい町です。

東京に戻ってみると、バブル経済の真っ只中で、友人に誘われて不動産取引の下働きのような仕事に就きました。いまではもうわかりきった話ですが、当時の不動産取引というものは、仲間の間で物件をやりとりして価格を上げていく、しょせんはマネーゲームでした。バブルが崩壊して、ひどい借金を背負いました。

そんな自分に呆れた最初の妻は、幼い長男とともに去っていきました。その子もいまでは、二十代後半となって法務省の職員、刑務官として立派にやっておりますよ。自慢の息子というわけです。

さて、借金を背負って、どうするか。あの時代、どこかに逃げるか、そうはしないでまじめに働いて返すか、そのふたつの選択肢でした。

わたしは、逃げないで返す道を選びました。大工をしていた中野区の父親の実家に幼い子どもと舞い戻って、一所懸命に働きました。月に三十万円の手取りのうち、二十万円を支払いに充てて、八年間かけてすべて返済しました。

二十代後半が転機でした。いまの仕事を始めて、借金を返したのが三十代。仕事で信用を得ることの大切さを、日々学んでいます。

ステディライズは朝礼で経営理念をとなえるが、さらに「ステディライズ精神」も唱和する。

一、向上の精神 自己目標を持って成長しよう!

二、ファミリーの精神 異体同心で一丸になろう!

三、奉仕の精神 商売は社会への奉仕である!

四、喜びの取引の精神 給料は喜ばれた結果! ……

鈴木修一はバブル経済崩壊からこうして二十年、文字通りこつこつと働いてきた。

三月十一日、早稲田大学でのオフィス機器の据え付けを終え、渋滞の車内でツイッターの存在に気をとめて帰宅した鈴木は部屋着に着替えると、テレビ画面とスマートフォンの双方に視線を泳がせ、落ち着かなかった。仙台時代のあの顔、この顔と浮かんできた。

「仙台空港へ津波到達、高台へ避難してください」「仙台近くの名取川流域では海岸から数キロメートルまで津波が入り込んでいる模様。頑丈な建物の三階以上に避難を」「いま津波で走っている車が流されて行きました。仙台です」など、震災にまつわる短い文字の羅列がぎっしりと入り乱れ並んでいる。住所が記入された「助けてくれ」という情報に「それはデマです」とRTが付けられたものもある。たいへんな事態だということは承知しているが、パニックの際に発せられるニセ情報も混在しているようだ。

スマートフォンの画面を慣れぬ指で送りながら、あるツイートのところで眼が吸いよせられるように止まった。

「障害児童施設の園長である私の母が、その子供たち十数人と一緒に、避難先の宮城県気仙沼市中央公民館の三階にまだ取り残されています。下階や外は津波で浸水し、地上からは近寄れない模様。もし空からの救助が可能であれば、子供達だけでも助けてあげられませんでしょうか」

ツイッターの百四十字という制限文字数のなかで描写が行き届いている。具体性があり情報の基本であるいつどこで誰がなどの5W1Hがしっかりしている。どうしたら救出できるか、手段まで記されている。

自衛隊機の空撮映像がNHKで流されて、気仙沼湾が火の海で、いまも燃えつづけている状況が映し出されていた。鈴木修一は若い時分に遊びに行ったことのある気仙沼を思い出していた。若さ、カネ、強靭な体力、自由、あのころはすべて持ち合わせていた。欠けていたのは人をいたわる気持ちであり、生活を持続させるための知性。知性というものの意味すら考えたことはなかった。そうだった。いまは違う。この短い文章と向き合って、考えた。自分に何ができるのか。

2

東日本大震災の起きた日の朝、宮城県気仙沼市の日の出は五時五十五分、気温マイナス三・七度、風速は北北西に最大二・三メートル。気象庁は乾燥注意報を発令している。

六時に防災無線が「恋は水色」の曲を流した。防災無線の曲をめざまし代わりにして起きる人がいる。気仙沼市は宮城県と岩手県の県境の港町である。

中背だが肩や胸がいかつい、力仕事で鍛えられたがっしりとした体格の三十六歳の奥おく玉たま真まさ大ひろは、気仙沼市の中央公民館と岸壁に面した気仙沼魚市場とのほぼ中間地点にあたる位置で酒屋を営む。

大震災でこの中央公民館に四百四十六人が逃げ込むことになるが、それは後につまびらかにしたい。

中央公民館まで南に百五十メートル、東に魚市場まで百メートルほどだ。屋号は名字のまま、「奥玉屋」の主人である。奥玉屋には酒や飲料水を売るだけでなく立ち飲みのスペースもあった。魚市場は生鮮カツオの水揚げが日本一であり、サンマ漁、マグロ漁でも扱い高は日本の漁港では有数であった。付近には冷凍工場、製氷工場、水産物加工の工場、倉庫、物流センターが軒を連ねている。

奥玉屋は漁師や付近の冷凍工場などの従業員が仕事を終え、帰り際にちょっと一杯ひっかける、立ち飲みでも繁盛していた。

中央公民館は気仙沼湾の南側に位置し、海岸からの距離は三百メートル。魚市場や冷凍工場などが林立している一帯は南気仙沼と呼ばれる埋め立てによって生まれた比較的歴史が浅いエリアである。中央公民館は気仙沼市の「中央」にあるわけではなく、別に市民会館は市街地の中心地の高台に建っている。フェリーや大型漁船はもう少し湾の奥の港に停泊し、乗組員を下ろしたり燃料を補給したりしている。商店や旅館や銀行支店などがぎっしり立ち並ぶ市街地は奥の港を中心に拡がっている。レストランやバーや料亭は中心地に行かなければない。

湾口の埋め立てエリアである南気仙沼は、海岸沿いの魚市場に連なり物流センターなど面積を要する大きな平屋や二階建ての工場群で栄えていた。工場と工場の隙間に個人住宅もあり、保育所やホテルもあったが、ネオンや照明が灯る港町の中心の商業地区ではない。

あの日、奥玉真大は母校の南気仙沼小学校にいた。卒業間近の六年生の二クラスを集めて、先輩の話を聞くという授業で教壇に立った。「わたしの野球人生」を後輩たちに語るためである。〝ようこそ先輩〟という社会人経験者を招く授業の一環で、一カ月ほど前に依頼が来ていた。

南気仙沼小学校の生徒だったときに気仙沼のリトルリーグ「南ボーイズ」で、守備位置はセカンド、打順はクリーンナップを任された。気仙沼は野球が活発でリトルリーグが六チームもあった。高校野球でPL学園の清原と桑田の「KKコンビ」が人気絶頂の時代だった。中学に進学して間もない頃、どうしても大阪のPL学園で野球がしたくなり、両親に問い合わせてもらった。PL学園の返事は、「息子さんは東北にいるのだから、そこでがんばったほうがよい」というもので、「もしPL学園の中学野球部に入っても高校野球部に入部できるのは、学年で一人いるかどうかですから」とていねいに断られた。PL学園の高校野球部は全国から優秀な選手が集まるので、中学野球部にいたからといってそのまま高校野球部に入れる保証はない。

それでも奥玉真大はあきらめきれずに、中途入学の試験を受け、PL学園の中学野球部に入った。中学校一年生の十一月のことである。自分の野球の才能に自信をもつ出来事があった。六年生のときリトルリーグの各地の選抜チームを集めた全国大会が、四国の松山で開かれた。気仙沼リーグの選抜チームに選ばれ、宮城県大会そして東北大会を勝ち抜き松山の全国大会に出場できた。

初戦で敗れたが相手は大阪の強豪チームだった。悔しさが、もっと強くなりたいという火種として残りくすぶりつづけた。だから中途でもPL学園の中学野球部を目指した。

学園側が「中学野球部から高校野球部へ進むことは難しい」と言った通り、彼の学年で高校野球部に入部できたのは奥玉真大ただ一人だった。前年の入部はゼロだった。

PL学園の高校野球部に入るまで自分に対する自信は揺るがなかったが、全国各地から選りすぐられた人材が集まっていた。全国大会に出場できたのは、二年生の三月、春の選抜高校野球大会での代打出場のみだった。もし地元の気仙沼や東北のどこかのチームに属していたら両親に頻繁に試合を見てもらえたと思った。ただ、一度かぎりでもPLのユニフォーム姿の試合を見てもらったことで満足でもあった。

こうして挑戦することで自分の実力がわかるものなのだ。代打出場一度だけではプロ野球からの誘いがないことは自明であった。プロ野球は無理としても野球にはできるだけ長く関わっていたい。大学や高校の監督とかコーチなど、なんらかの関わりができるような指導者になればという夢を持ちつづけた。

仙台市の東北学院大学経済学部に入学、四年間野球部で過ごした。最後はキャプテンを務めた。チームが所属している仙台六大学リーグには、強豪の東北福祉大学がいて、東北学院大学は彼がいる間は万年二位に甘んじた。

卒業して社会人野球部に所属した。福島県郡山市に本社があるヨークベニマルに入社したが二年半ほど経って野球部は休部となってしまう。野球を続けるため、北海道へ渡った。札幌市の商品先物取引会社サンワード貿易に移籍。しかし半年後、父親がガンのため体調を崩して、実家の奥玉屋を継いだ。二十五歳のときである。

自分のわがままから中学校時代にわざわざPL学園に行かせてくれた両親のために、恩返ししたい気持ちもあり現役の野球人生を断念して気仙沼に戻ってきた。

野球への情熱は消えない。家業のかたわら地元の高校野球の強豪、気仙沼向洋高校(旧・気仙沼水産高校)の野球部のコーチになった。高校創立記念の企画として「PL学園の野球部と招待試合を」と提案、実現した。

試合は二日間に分けて、両日とも向洋対PL、そして初日が気仙沼の北にある、岩手県の大船渡高校対PL、二日目に地元の気仙沼高校対PLの試合が組まれた。二〇〇三年(平成十五年)六月二十一日という日付を明確に記憶しているのは長男がその前日に生まれたからだ。

招待試合には、高校の創立記念のほかに自分自身の個人的な思いがこもっていた。この年の春、ガンの治療に取り組んでいた父親の主治医から「完治は困難」と告げられた。PLのユニフォームを着た試合をあの春の選抜で一度しか見せてやれなかった、PL学園の野球をもう一度見せたい、と考えた。

招待試合前後の二週間、父親は体調がよい時期でいったん家に戻ってきた。試合を観戦でき、喜んでくれた。それから二カ月余り経ち、亡くなった。よい親孝行ができたと思った。

母校の南気仙沼小学校の〝ようこそ先輩〟の授業を承諾したことが、いまから思えば運命の分かれ道だったと思います。それまでの野球人生と、中学校に入学早々にPL学園に転校する決断をした話をしました。

あのとき、南気仙沼小学校にいなかったら、わたしも、そして家族も命を落としていたかもしれません。

授業は午後の五時間目でした。講堂で授業を終えて、午後二時前から校長室で校長と教頭と雑談をしていました。

いつもならこの時間帯は、店の周辺にある水産加工会社や路上にある、ジュースなどの飲料の自動販売機に商品を追加しているころでした。管理している自販機は五十台あります。父の代に二十台から始めた商売を、大きくしたものです。設置場所は、高台もありましたが、その数は少なく海辺に近いところが多かった。わたし自身津波に吞まれていた可能性もありますし、家族を避難させる余裕もなかったでしょう。

校長と教頭が玄関まで見送ってくれ、靴を履くやいなや大地震が起きて、長い揺れでした。校長も教頭もわたしも身動きできないほどでした。

教頭はすぐに緊急の校内放送をするために立ち去りましたが、放送を入れようとした瞬間に電気が使えなくなった。校長は揺れが治まると職員室へ行きました。全校生徒を校庭の真ん中に集めるため先生たちに各教室へ回るよう指示しました。

わたしはまず、当時一年生だった長男の教室にかけつけて、先生の指示に従って避難するように強く言いました。一年生、二年生は帰る寸前、あるいは下校中でした。校長は、担任の先生にすでに下校中でも近くにいるなら連れ戻せ、と必死に指示しました。三階建ての校舎ですが、そのときは校庭から二階へ生徒たちを避難させています。南気仙沼小学校は海岸から一キロメートルほどの距離ですが、大川という河川沿いに建っているので結果的に逆流した津波が二階の天井まで浸入してきたので三階に避難したと後に確認しています。

保育園児だった下の二人の娘は、叔母の林小春が所長を務めている一いつ景けい島じま保育所に預けていました。一景島保育所ではすぐ近くの中央公民館に避難するはず。

自分の大型バンのエスティマの自家用車で奥玉屋へ戻りました。母に軽自動車のアルトを運転させ、祖母と避難所になっている中央公民館に向かわせました。

それから、わたしがおろかだったのは、先ほどから乗っていた車で、魚市場の辺りの様子を見に行ったことです。自宅からまっすぐ海側へ行くと魚市場に突き当たる。そこでちょっとハッとした。これはまずいと思った。車の行き来がまったく絶えていたこと、人の姿も見えない。気配がない。シーンとしている。二日前にも大きな地震があったが、そのときには車も動いていたし、人もいたことが、頭の片隅をよぎりました。

あわてて、右折して、Uターンするように中央公民館に向かったのです。ラジオを聴いていると、気仙沼を襲う津波の高さは六メートルと言っている。その高さであれば、二日前の予測もそうだったのではないか。なんとかなるのではないか、そう考えた。ところがラジオが、津波は十メートル、と予測を変更しはじめた。これはダメだ、なんとかしなければならない。

中央公民館の入口から駆け上がって二階に着くと、和室に一景島保育所の園児らが避難していました。祖母と母が避難していることも確認した。保育園児の二人の娘もわかりました。そして、所長をしていた叔母の林小春がいました。いつも「コーちゃん」と呼んでいます。

「コーちゃん、こんなところにいたらダメだ。死ぬぞ。上さあがれ!」(注・気仙沼弁では「上に」や「南に」を「上さ」「南さ」と表現する)と叫びました。

3

一景島保育所の林小春は笛を胸にぶら下げている。吹く笛がピッピッピッと響くと、二階の和室に避難していた子どもたちは慌ただしく三階へ向かった。訓練された動物のように狭い階段を柔らかな塊になって押し合いへし合いしながら素早く移動した。

酒屋の奥玉屋は真大の父親が継いだ。妹がいた。五十九歳の林小春は真大の叔母にあたる。

林小春はそれなりの年齢になっているのに血色のよい童子の顔をしている。気丈な意志は少し上向いた鼻と、ひと言ひと言に唇をきゅっと結びしゃべるようすから感じられた。

よちよち歩きの幼いころから、酒屋で立ち飲みをしている海で働く荒くれ男たちの脛すねの間をちょろちょろと潜ったりして育った。大阪の一杯飲み屋の娘を描いた劇画「じゃりん子チエ」を彷彿させる環境である。酔っぱらいの男たちのなかには大声を発する者もいる。彫刻のように黙って動かない者もいる。いきなり殴り合いが始まることもある。小さな小春を抱き上げる者もいる。

小春は「こいつ、きかない子だ」と酔客に言われた。「利かん坊」の意味である。魚市場の職員、仲買人、水産加工場などで働く男たちが仕事帰りに立ち寄った。気性が荒いだけならよいが酔ってくだを巻く男は嫌いだった。そうしただらしない酔っぱらいと口喧嘩をした。小学校に入ったころに店番や酒の配達も手伝った。

いずれにしろ広大な海がもつ生命力が涸渇しないかぎり、荒くれ男たちは元気なのである。小春が成長の過程でその細胞にしみこませてきたものは港町の気風であった。

午後二時四十六分に大きな揺れが襲った。

一景島保育所には七十五人の幼児が通園している。その日は四人欠席で七十一人いた。保育士は十一人である。事務室に取り付けてあった防災無線の個別受信機から、あの未曾有の地震が保育所に伝わる寸前に、六年間一度も鳴ったことのない緊急地震速報を初めて聞いた。

保育所は木造平屋建てで二棟に分かれている。林小春所長は三〜五歳児がいる保育室に向かって走り出した。事務所にもう一人、栄養士がいた。栄養士は二歳児以下の赤ちゃんがいる別棟へ走った。走る寸前、互いに「地震が来る!!」と大声を上げたのだが、事務室を飛び出すやいなや大きな揺れがやってきた。

林小春は即座に野球のグラウンドを挟んだ向こう側に建つ中央公民館への避難を決断した。中央公民館の横には気仙沼市勤労青少年ホーム、気仙沼市勤労者体育センターが並んでいるが、いずれも小振りの建物である。大きなホールがあり、屋上もある中央公民館は一時避難場所(津波避難ビル)に指定されていた。

一景島保育所では隣の障害児童施設マザーズホームと共同で毎月一度、避難訓練をしている。二日前には実際に避難した。

三月九日午前十一時四十五分、三陸沖を震源としたマグニチュード七・三の地震が発生、宮城県北部の震度は五弱でかなり大きな地震である。この地震では速報のシステムが気仙沼の予想震度を四程度と評価したため緊急地震速報は流れなかった。

気仙沼市の隣、南三陸町では海面が不自然に波立ったので、ギンザケの養殖漁場では網が引き波と押し波で幾度も巻き上げられ、ギンザケが暴れ回った。一年前のチリ大地震の津波ではいけすの網が皿のような形になり浮き上がったが、二日前はそれほどではなかった。カキの養殖場に多少の被害が出たり、宮城県の公立学校の入学試験日で受験生が机の下に潜ったりしたが、翌々日の大震災を予感させる気配はなかった。

翌朝の新聞もこう記している。

「三陸沖を震源に宮城県北部で震度五弱の揺れを観測した九日の地震について、東北大地震・噴火予知観測研究センターの松沢暢教授は、予想される宮城県沖地震との直接の関連はないとの見解を示した」(河北新報二〇一一年三月十日付)

林小春は気仙沼市内の他の保育所から一景島保育所に転勤して六年、所長になって三年目だった。震災の二日前の三月九日にも津波注意報が出た。

一時避難場所とされている中央公民館に避難した。

二階の和室で注意報解除を待った。ゼロ歳児もいることから、一カ月に一回、新入園児がいる場合などには二回訓練した。海からわずか百五十メートルという距離に位置する保育所として、「逃げる」ことを最優先してきた。一景島という名前の通り、現在の魚市場が立地する以前の昭和二十年代に気仙沼湾を埋め立てた場所である。海抜ゼロメートル地帯であり、気仙沼市史には昭和四十四年四月に設立されたと記録され、「低地のため増水時に被害が多発。昭和五十六、五十七年にかさ上げ工事」とある。同じ敷地内に翌年、障害児童施設マザーズホームが移設されている。地盤沈下が毎年続いていたのに加え、地球温暖化の影響なのかどうか、高潮や大雨で付近の道路が冠水することが常態となっていた。そのため市役所内では数年前から「乳児の保育は危険」との声も出て、乳児保育を他の施設に移管することも検討されていた。しかし結論は先送りされた。

いっぽうで一景島保育所の周辺には、気仙沼の経済を支える魚市場があり、製氷工場や水産加工場が集中的に林立している。加工場には多くの女性が働いており、ゼロ歳児から五歳児まで安心して預けておける一景島保育所は人気が高く、定員に対しつねに満杯状態であった。

危険区域に立地するゆえ気仙沼市の防災計画では、大きな地震、津波注意報、警報が発令されたら、すぐに一時避難所の中央公民館に避難するよう指示されている。三月九日も市社会福祉事務所の職員が避難の手助けに駆けつけた。さらに市は近隣の事業所にも、いざという場合の協力を呼び掛けていた。避難したのち公民館の和室から道路が冠水する様子が見えた。小さな津波は来た。日頃の訓練に加え、二日前に実地の避難訓練をしたことで、林小春の判断は素早かった。

訓練のときと同じですが、あの揺れ方は尋常ではなく、二日前の津波以上の大きな津波が来ると確信しました。二時四十六分の地震発生時、保育所はお昼寝の時間でした。わたしは保母と、そして手伝いに飛び込んで来たマザーズホームの職員らと、起きて驚いている園児に駆け寄り、揺れが収まるのを待ちました。しかしなかなかその揺れが収まりませんでした。このまま園舎にいるのは危険と判断しました。そこで着替えを終えた園児をつぎつぎと園庭に出しました。

年長組の五歳児は、小学校入学間近だったため、入学後に備えて昼寝の習慣をやめさせていました。園児は自発的に服の上にジャンパーを着始めていて、日頃の訓練の成果を見る思いでした。ジャンパーを着た園児は、速やかに園庭へ移動させました。

昼寝していた四歳以下の園児は、パジャマのまま、その上にジャンパーを着せ、脱いでいた靴下は履かせず、素足のまま靴を履かせました。

時間との勝負、と思ったから。

すべての園児に落下物から頭を保護する防災用の帽子を着用させました。準備のできた五歳児から避難を開始しました。訓練や二日前の避難でも、園児全員の点呼を終えてから避難を開始するのが手順でしたが、あの日は、人数を確認できたところから、四歳児、三歳児と後続がつづき、笛をピッピッピッと吹きながら行進させました。

ゼロ歳児など乳児もいることから四、五人が乗れる手押し車タイプの乳母車があります。平常時には付近の散歩にも使っています。その避難車は四台あり、保母はそこに訓練通りに、乳児を乗せ、保育所を離れました。ふだんから使用しているというのも、訓練の延長だと思いました。

園児たちのうち乳児の中には、泣き声を上げる子もいましたが、三歳児以上は大きな声で泣き叫ぶ子は一人もいませんでした。子どもたちは落ち着いていました。保母もしっかりしており、隣の障害児童施設マザーズホームの内海直子園長以下、職員の手伝いも大いに助かりました。訓練の成果もあるのでしょうが、必死な大人の様子を察して、子どもたちはおとなしくしていたという印象があります。

中央公民館は野球グラウンドを挟み保育所と同じ敷地内にあり、地震発生から八分ほどで園児、保母らが全員無事に到着しました。避難は二日前の震度五弱の地震のときと同じく一番乗りでした。二日前と同じように二階の和室に上がり、到着した園児が座っていました。わたしが最後に到着し、二階へ上がろうとしたとき「大津波警報が発令された」と耳に入りました。「ここでも危ないかもしれない」という声があったと思います。

そこに男性の大声が響きました。

「ここじゃダメだ」

顔を見ると、わたしの実家で酒屋を経営している甥の奥玉真大でした。甥はわたしを名前の小春から「コーちゃん」と呼びます。甥の叫び声でハッとしました。

「コーちゃん、ここでも危ないぞっ。上さあがれ!」

そこで全員で三階まですぐに上がりました。何か、気が急せいて、這い上がるというような気分でした。

林小春所長だけでなく保育士たちも迅速に動いた。やさしいお母さんという面立ちの五十三歳のベテランの保育士菅原英子は年長児童の五歳児を担当していた。五歳児の在籍は二十人だが一人が欠席で十九人いた。小学校入学に備え昼寝の習慣をやめて室内で遊ばせていた。地震の揺れが始まるとすぐ、いつもの訓練通りに机の下に園児全員が潜り込んだ。

あの大きな揺れにわたしはこれまでとは違うただならぬものを感じていました。園児もわたしの様子から、同様に察していたように見えました。わたしもふだんの訓練時とは違い、園児には厳しい声掛けになっていました。いつもの訓練では「机の下に隠れてね」「しゃべらないでね」とソフトに言っていましたが、あのときは「入って」「だまっていて」「泣かない」ときつい言葉を発し、命令口調になっていました。

五歳児ですから、敏感に、いままでとは違うと感じ取っていたと思います。わたし自身もあまりの地震の大きさに一瞬、動転しそうになりましたが、子どもたちの顔を見て「こんなことじゃダメだ」と気持ちを入れ替えました。それからは一度もへこたれる気分にはなりませんでした。いままでの地震ではわたしは机にもぐらず、園児だけが机にもぐるのですが、わたしも机にもぐりました。そこから園児たちを見て、指示を出していました。揺れはなかなか収まりませんでした。

ややあって少しだけ揺れが小さくなったときに、いったんすぐ隣にある事務室に戻りました。すると林所長が「大津波警報が出た」と大きな声を発している。すぐに事務室に置いてあった、避難時に持つ非常用袋を持ちました。その青い袋には五百ミリリットルの水数本と、せんべいや乾パン、飴などが入っており、けっこうな重量がありました。

所長からは「三歳児、四歳児の保育士にも大津波警報が出たことを伝えて、五歳児からすぐに避難を開始して」と指示を受けました。そこで三歳、四歳のクラスに行って「ジャンパー着て、すぐに避難」と伝えてからわたしは五歳児の部屋に戻り子どもたちに「逃げるよ」と声を掛けました。

四歳児担当で二十四歳の高橋裕子は、ぽっちゃりと柔らかな頰、保育士歴二年の新人である。オレンジのチェックのエプロンの上に紺色のフリースを羽織っていた。林小春所長がまだ若い保育士だったころに保育所で育てられた新しい世代である。十六人の四歳児を一人で担当していた。この日は一人が欠席で十五人だった。

昼寝をしていた四歳児は二時四十五分に起きることになっていた。揺れが起きたのは目覚めのためカーテンを開けようとしたときである。すると布団を頭に被った林所長がドアを開けて現れ「すぐ避難! 着替えしなくていいから」と叫んだ。

時間がない。パジャマの上にジャンパーを着せ、帽子を被らせた。ほとんどの子は自分で身支度ができた。名簿と飴、ペットボトルが二本入っている非常用袋をつかんだ。

林所長はマニュアル通りに点呼をとる時間を省くため菅原英子保育士に早口で言った。

「全員揃うのを待たなくていいから、クラスごとに揃ったら避難して」

「五歳児、十九名、行きます」と菅原保育士は高橋保育士に言った。

「はい。四歳児十五名、行きます」と高橋保育士。

五歳児担当の菅原保育士が先に出発した。四歳児担当の高橋保育士がつづいた。

菅原保育士は赤い旗をかざしている。避難するときは五歳児を先導する先生が赤い旗を持って先頭に立つよう訓練してきた。

あの日も同じで、わたし(菅原)が赤い旗を持ちました。

園児はその赤い旗を目標に歩くようふだんから訓練していました。旗は一メートルほどの長さの棒の先に、A4判の紙ほどの大きさの布を取り付けたもので、保育所には事務室と五歳児の部屋の二カ所に常備していました。

担当の保育士は各部屋にある、五百ミリリットルの水二本と飴などが入った非常持ち出し袋と園児の名簿を持って、避難しました。わたしは事務室から持ってきた大きな避難袋だけでなく、各部屋の避難袋も同時に持とうとしましたが、重くて小さなほうは持ち出すことができませんでした。保育所から持ち出した水はペットボトルで十本程度です。

避難の途中、孫を迎えに来たおばあさんがいましたが、わたしたちは避難の歩みを全く緩めず「いっしょに、公民館に避難してください」と呼び掛けました。そしていっしょに避難してもらいました。安全かつ速やかな避難をすること、その方針は絶対に曲げないことを決めていましたし、津波が来る前に全員を無事に避難させるため、長年、歴代の保母が納得して、やりつづけてきたことです。だから、説得もしません。「いっしょに中央公民館に来てください」。それだけ。後にそのおばあさんからは「死なないで済んだ」と言われました。

ちょっと膝を痛めていて重いリュックサックを背負って急ぎ足で歩くことは難しいのですが、あのときは全く痛みも感じませんでしたし、駆け足さえできました。

一景島保育所は、園児の避難を速やかに行うため避難を補助してくれるよう、付近の事業所に申し入れをしていた。その事業所の一つに道路を挟んで隣に建っている冷凍食品工場の足利本店がある。足利本店は、魚市場でメカジキやモウカザメを買い付け、生のまま築地市場など全国各地に出荷している。製氷工場も経営している。

工場の製造ラインを止め、保管庫の片づけをしているときに地震に襲われた。外に逃げろ、と誰彼となく叫び建物から道路に出た。眼の前に一景島保育所がある。

「津波くっぺから、保育所へ行くか?」

三人の若い従業員が白い服と長靴姿のまま走って来た。菅原保育士が赤い旗を掲げて出発するところだった。菅原保育士は「三歳未満の児童の避難を助けてください」と後列を指さし、四歳児の後方からつづいて歩いてくる三歳児の誘導を早口で頼んだ。

足利本店の男手は役立った。中央公民館の玄関の段差で避難車(大型乳母車)が引っかかると、よいしょ、と引っ張り上げてくれた。避難車のなかには眠ったままの乳児もいた。避難車は階段の手前までだ。そこから先、「乳児はだっこしてください」と言われた彼らは二階まで幾度も往復してくれた。

一景島保育所の保育士は断固とした意志の塊であった。保護者に毅然としていたのは菅原保育士だけではない。公民館に避難した後、続々と保護者も来て、我が子を家に連れて帰ろうとしていた。

中央公民館にかけつけた保護者の一人、三十四歳の西城千佳子は看護師で勤め先の医院の白衣の上に紺色のカーディガン姿であわてて階段を上った。長女が気仙沼小学校にいるので四歳の次女を連れ出して合流しようと考えていた。

しかし、「外に出たら危険です」と制止された。

「上の娘が気小(気仙沼小学校)にいるんです。あっちのほうが高台で安全です」と粘った。

「確かに気小は高台ですが、もういつ津波が来てもおかしくありません」

「でも上の娘を一人にしておくわけにもいきませんから、次女を連れて行かせてください。お願いです」

「ダメです。園児を行かせるわけにいきません。お母さんもここに留まってください」

中央公民館に来る途中、車で渡った大川の水位は下がっていた。「引き波かな、もう津波が来るのかも」と直感した。六年生の長女は六時間目まで授業だから、学校に残っているはず、いちばん安全なところにいる、と思い直した。

保護者の中には「所長は?」と矛先を変える者もいた。林所長を含めて、それぞれが合計七十一名もの園児の動きに気持ちが集中しているので、所長であろうが、担当の保育士であろうが、答えは同じなのである。「帰られては困ります」「子どもたちだけ、置いていかれても困ります」「子どもを連れて帰っても困ります」と、全てにノーを出すよう意思は統一されていた。

魚市場に隣接して「海の市」という大きなサメのマークが描かれた二階建ての施設がある。一階が海産物の直販コーナー、二階がレストランで、土日になると駐車場に待ちが出るほど人気の観光スポットだった。「海の市」に勤務していた三十歳の尾形弘美は一景島保育所に四歳の息子を預けていた。埋め立て地にたつ建物は波打つように揺れ、天井の石材の破片がバラバラと落ちてきた。客を誘導しながら自分も外へ出ると、目の前で駐車場の地面が割れた。店内に戻ると、朝、人の背丈ほどまで積み上げた人気のフカヒレスープの箱が雪崩を起こし床に散乱していた。呆然としていると、同僚から「何をしているの。今日はもう仕事にならないよ。早く一景島保育所に行こう」と急かされた。

尾形弘美の息子はすでに中央公民館二階の和室に避難していた。

「怖かったね。車に乗って帰ろうね」

息子の手をとって部屋を出ようとすると保育士に止められた。

「すぐにでも津波が来るかも知れません。帰らないでください。どんな理由があっても、保育所として園児を帰すわけにはいきません。尾形さんもここに留まってください」

厳しく諭された。

「あの、ちょっと息子をトイレに連れていきます」

ここまで乗せて来てくれた同僚が駐車場で待っている。階段を降り始めた。ところが下で待っているはずの同僚が上がってきた。

「消防団の人に渋滞だから進んじゃダメと言われた。わたしも中央公民館に避難しなさいって」

このとき「上さあがれ!」の声があって、園児たちは二階から三階へ移動しはじめるところだった。流れに乗って三階の調理実習室に入った。

以前から、絶対に帰さないという方針を園として決めていましたので、わたし(菅原保育士)ももちろんですが、他の保母さんも、そこは断固として、「ここに居てください」と、一人の保護者、園児も帰しませんでした。「この人の家は、たしか魚市場前だったな……」と園児のそれぞれの自宅も分かっていましたから、帰さない、という方針は揺らぎはしませんでした。

公民館の駐車場や、付近の道路に駐車した車の中に携帯電話を忘れたというお母さんがいました。彼女は「いざというとき、お互い連絡を取り合うことにしていますので、携帯電話が必要なんです」と話されましたが、そこも「行かないでください」と、はっきり言いましたし、彼女も従ってくれました。正直、杓子定規と感じ、ムッとした人もいたかもしれませんが、それでよかったと思います。車のエンジンを掛けたまま、わたしたちに食い下がる保護者もいました。でも全員にダメだしをしました。

とにかく保母全員が異様な緊迫感に包まれていました。長年、訓練を重ね、実際の地震でも避難をしていますから、一景島のそれまでの積み重ねを含め、「いままでと何かが違う」と感じていたんだと思います。

最初は、二日前と同じく、二階の和室に入りましたが「ここで大丈夫か」という不安はありました。そうこうしているうちに「ここじゃダメだ」という男の人の声が聞こえました。わたしも最初からそう思っていたので、まさに「そうだよね」と思い、子どもたちを急いで三階に上げました。あの声が私たちの気持ちを代弁してくれました。

二歳児を担当していた四十四歳、痩身で敏捷な体たい軀くの遠藤留美は、いつものように昼寝中の子どもたちを見つめていた。そろそろ起こそうかなと思ったところだった。それから事務室前に行き林所長と立ち話をして、「お昼寝、終わる時間だから保育室に戻るわ」と事務室から一歩踏み出したとたん地震の大きな揺れに遭遇する。臨時の保育士一人が遠藤留美と二歳児の十一人を担当していた。十人が二歳児で、十人の一歳児クラス(ゼロ歳を含む)の手が足りないので、一歳児一人を引き受けていた。二歳児は一人が欠席だったから地震発生時は、一歳児クラス九人、二歳児クラスが十人いたことになる。

事務室にいた栄養士といっしょに二棟ある保育所の三歳未満児の棟に向け走った。林所長は事務室に戻るのをやめ、Uターンをして、三歳以上児のいる西側の棟に同じく走り出した。

ダッシュで戻ると臨時の保育士が一人で、部屋の真ん中にやや腰を屈めながら、手を広げて立っていました。子どものなかには目を覚まし、ふとんの上に起き上がっている子もいましたが、泣き声は聞こえませんでした。

わたしはまず「火は消したかな」とその臨時の保母さんに声を掛けました。ストーブがあったのです。彼女は「点火していません」と答えました。お昼寝中だったので、まだ点火する前でした。お昼寝していた部屋にあったブルーヒーターも、その西隣にあり、二歳児が遊んだりする小ホールの煙突付きの石油ストーブも点火していませんでした。ふだんからお昼寝が終わる時間を見計らって石油ストーブを点火しますが、あの日はまだ点火前でした。

部屋から庭に通じている避難口を開けに行きました。津波が来ると言われていた施設なので避難口には園児六人ほどが立って乗れる乳母車が二台、つねに置いてあります。

訓練も、翌月の行事予定を決めるときに必ず組み込んでいましたし、それは開所以来、毎月欠かしたことはありません。

二歳児は、起きて室内で活動するときは上靴を履いていますが、お昼寝だったので脱いでいました。二日前、津波注意報があって避難していましたが、それだけではなく、その日は変な胸騒ぎがありました。お昼寝の時にも、所長に「パジャマに着替えないで、寝せますか」と相談しています。「そこまではいい。いつもどおりに着替えさせる」という結論になりました。

しかし、何かいやな感じはつづいていました。いつもなら毛布を掛け、その上に布団を掛けますが、いざというときにかさばる布団は持ち出せないので、毛布は乳母車に突っ込んで、そのまま持って避難できると思い、そのようにしました。園児がお昼寝のため脱いだ上靴も一つの箱に入れておくだけでは、何か心配で、その箱も園庭に出入りするサッシの引き戸の近くに置いていました。ジャンパーもそれぞれの園児のロッカーに入れていますが、それを出して、やはり出入り口の所に重ねて置きました。誰かがわたしに、「やったほうがいい。備えておいたほうがいい」と伝えているかのようでした。

避難マニュアルでは「揺れが収まったら避難開始」となっていましたが、あまりにも長い揺れのため、収まるのを待つのが不安になったとき、隣接する障害児童施設マザーズホームの職員が園庭から入って来て「逃げよう」と声を掛けてくれました。ふだんから「津波は二十五分で来る」と言われていましたが、そのときは、もうすぐにでも来そうに感じていました。

そこで逃げることにし、わたしは部屋から子どもたちと毛布などを出し、マザーズホームの職員が受け取り、乳母車に入れる作業をしました。

いつも寝起きが悪く、昼寝の後、必ず泣く子がいました。その子は、たぶん大泣きすると思い、「抱っこするかして、逃げるしかないな」と思って、最後にその子の布団をはがすと、目を開けたまま無言でいました。泣いてもいませんでした。そこで「助けてあげるから、逃げよう」と声をかけると、ふっと自分で起き上がってわたしのところに来てくれました。乳母車二台には六人と四人で乗ったと思います。

地震で避難するときは避難車にたまたま付いていたごみ袋に上靴や毛布を詰め込めるだけ入れ、さらに園児の頭にも毛布を被せました。てんこ盛り状態のため、逆に私は二歳児クラスの非常持ち出し袋が持てなかったのです。

マザーズホームの園長の内海直子さんから「後は?」と聞かれたので、わたしは「奥にいるゼロ歳児と一歳児の手伝いお願いします」と答えました。そして六人の子どもを乗せた乳母車を押して、走りました。

そのときは、自分の吐く息の音しか聞こえませんでした。二歳児とはいえ六人、しかも毛布なども積んでいましたので、いかに火事場の馬鹿力とはいえ、息が上がりそうになりました。体力が限界近くなったまさにそのとき、近くにある水産加工場の足利本店の従業員の人が手助けに駆けつけてくれたのです。三十代の比較的若い男性だったような気がします。その男性が避難車の前に回り込んで、乳母車を力強く引いてくれました。一年に一回、合同で避難訓練をしている事業所の人のおかげで、助かりました。

公民館にみんなが続々と避難して来ましたが、じつは一般の人はさほど緊迫感はなかったと思います。わたしたちだけがピリピリ感を前面に出していたかもしれません。子どもの命を守るのが仕事の保育士、しかも一景島の保育士だからだと思います。マザーズホームの先生も、子どもたちはいませんでしたが、同じだと思います。

海が見えるゼロメートル地帯の保育所でしたからふだんの生活でも、例えばプール遊びのときでも、必ず、着替えの場所、上靴を置いておく場所も決めていました。すぐに履いて逃げられるように、一つのかごにまとめて置いていました。プール使用時だけでなく、室内にいるとき、園庭で遊んでいるときと、あらゆる想定で、子どもたちが素早く避難できる態勢を考えていました。

他の保母もわたしも絶対に子どもを、迎えに来た保護者も、もちろん子どもたちも帰しませんでした。あの高さの津波が来るとはさすがに予想はしていませんでしたが、津波が来ることは確信していました。

避難して「園児たちは二階に」と指示されたとき、私たちは「えっ? ダメだよ、二階じゃ」と思いましたが、それは明確な理由があるわけではなかったので、その指示に最初は従いました。いま思えば「一番上へ行きたい」と、そのとき感じていた気持ちをちゃんと伝えるべきだったと思います。

そうこうしているうちに「ここじゃダメだ」という男性の声が、響いたのです。

4

その叫び声を聞いたのは一景島保育所の保育士たちだけではなかった。

一景島保育所に隣接して障害児童施設マザーズホームがある。園長の内海直子は五十八歳、メガネをかけ細面の顔立ちで、芯の強さが姿勢のよさに現れている。長年、障害児を相手に辛抱強く仕事をこなしてきたのだ。

マザーズホームは気仙沼市社会福祉協議会が運営している。心身に障害のある幼児、小学生が通うデイサービス施設である。昭和四十九年に気仙沼市本町に重症心身障害児者施設として設立され、十年余り経過したところで一景島保育所の南隣に移設された。比較的軽度の発達障害の子どもを受け入れる形態へ変わったとはいえ、移設する際、「津波の危険性がある海の近くで大丈夫か」と懸念する声もあった。一景島保育所とマザーズホームは平屋で隣り合わせ、園庭を共用していた。健常児といっしょに遊ぶことで発達を促す目的である。

内海は十五年ほど前に他の障害者施設からマザーズホームに転勤してきた。八年前からは、ずっと園長職に就いている。幼児と小学生を入れて三十五人前後が通っていた。定員は幼児、小学生とも各五人だが、代わりばんこの通園なので一日平均にすると幼児、小学生とも七、八人の受け入れ体制をとっていた。幼児部門は、障害について理解を深め、母親同士の交流を図るため「母子通園」という形をとっていた。幼児はお母さんといっしょに通っていた。月曜から金曜の午前九時半から午後二時ごろまで母子で過ごす。入れ代わり、小学生は放課後の午後三時から六時まで預かっていた。

一景島保育所の林小春所長が大震災の二日前、三月九日の地震で中央公民館へ避難したが内海園長も同じである。午前十一時四十五分の地震によりマザーズホーム事務所の柱が裂けた。もともと小さなヒビが気になっていたが一気に裂け目が広がった。裂け目は幅が二センチ、長さは二メートルほどあり、しかも前後にずれ、危険な状態だった。「これは修理を頼まないといけない」と、被害の様子を写真に撮り、施設の持ち主である市役所と連絡を取るつもりでいた。三月九日の地震は昼過ぎに二十センチほどの津波が来て、付近の道路は冠水した。だが一景島保育所とマザーズホームの園庭は土盛りして、やや高かったので津波の浸入はなかった。

マザーズホームでは月一回、中央公民館への独自の避難訓練をしていた。さらに年に二回、一景島保育所と合同での避難訓練もしていた。

三月九日の地震では津波警報でなく津波注意報だったので、園にいた幼児とその母親を帰宅させた。母子を帰宅させてから職員らは中央公民館に避難した。

三月十一日はいつもと同じ、午前九時半から午後二時までマザーズホームで母子と過ごした。小学生は放課後の午後三時からである。午後二時二十分ごろに二歳半から就学前までの幼児七人が、それぞれ母親の運転する車で帰宅した。通常は二時帰宅だが二日後の三月十三日の日曜日が卒園式の予定なので、その予行演習で二十分ほど遅くなった。地震発生まで三十分。帰宅させた後でよかったと思った。六人いる職員は全て女性で、そのうち二人は二手に分かれ、気仙沼市南部の階上小、西部の九条小と県立気仙沼支援学校に計五人の小学生を車で迎えにいっていた。迎えはマザーズホームの職員がやり、六時の帰宅は保護者が行う。

二人の職員が車で各小学校へ迎えに出ている間、内海園長を含め四人はいつも行っている園内の掃除をしていた。

二時四十六分、大きな揺れで内海園長は事務室から園庭へ飛び出した。マザーズホームの柱に裂け目があるため外のほうが安全だと思ったからだ。園庭からマザーズホームと隣の一景島保育所がガタガタと揺れているのが見えた。一景島保育所では年長児を除く園児は昼寝の時間で、強い揺れにおびえている様子が外から見えた。すぐに保育所内に入り、「大丈夫だよ」と園児をなだめたが揺れがなかなか収まらず、誰ともなく「建物が崩れたら危ないから、出よう」という声が上がった。避難用に保育所が用意していた数人が乗れる乳母車に保育士たちが「ぼんぼんぼん」と乗せている。さらに保育所を覗くと奥の部屋に七、八人の乳児がいるのが見えた。保育士が二人、子どもをおんぶしようとしている。おんぶは乳児一人ずつしかできない。内海園長はすぐにマザーズホームの職員四人を呼び、一人ずつ乳児をおんぶした。焦っているため、子どもを背負い、おんぶ紐を結ぶという簡単な作業にも手間取り、とてももどかしい気持ちだった。

内海園長は、背中に一景島保育所の一歳児をおんぶしてから、忘れ物がないか、もう一度、マザーズホームへ戻ろうと思った。玄関のところで金魚の水槽の水がこぼれていることに気づいた。事務室に入ると自分の机の引き出しが開いている。預金通帳はロッカーの金庫だ。通帳は再発行してもらえばいい。園の重要書類は探している余裕もない。USBメモリをつかんで、足下にあったバッグに入れた。バッグには携帯電話とデジタルカメラとハンカチ、マザーズホームと車の鍵が入っている。早く逃げないと、背中の子どもが津波にやられてしまう。玄関にシルバー色の非常持ち出し袋が置いてあった。持っていこうと思って持ち上げたが意外に重量があった。背中に子ども、そのうえもう一つリュック、津波が来る恐怖。リュックは諦めた。急がなければならない。

小学生を迎えに車で出かけた職員二人のうち一人は運転していて、激しい揺れに驚き、気仙沼市を流れる大川の最も下流に架かる曙橋の手前でマザーズホームに引き返す判断をした。そのまま渋滞していた国道四十五号線に入っていたら津波の来襲を受けていたかもしれない。もう一人の職員は津波が届かない高台の支援学校に到着したところで巨大な揺れに遭遇する。

途中の曙橋で引き返した四十八歳の中嶋明美は、内海園長が頼りにしているリーダー格のマザーズホーム職員である。中嶋明美は、携帯電話がビュービューといままで聴いたことのない音を発するので車を止めた。緊急地震速報であった。すぐに揺れが車を襲った。ブレーキを掛けて止めた。前にいた車二台も止まった。後続の車もいっせいに止まった。JR気仙沼線のガードを潜ったばかりのところだった。信号機の鉄柱が傾き倒れかかりそうだった。車は跳ね上がっている状態で、必死でハンドルを握って耐えた。揺れが収まってから引き返すことにした。二日前の地震とは桁違いの揺れなので「これは大きな津波が来るかも」と思った。

中嶋明美が引き返したとき、一景島保育所の園児たちの避難は始まっていた。訓練通りか、それ以上に素早いような気がした。子どもたちは、いつもの訓練のときと全く変わらず、一列に整然と並んでいた。あの揺れの直後なだけに、その平静な行動に感心した。

公民館から見て南側にあるマザーズホームの駐車スペースに車を置き、わたしはまずマザーズホームの建物に入りました。玄関を開けたら、金魚を入れた水槽があったのですが、その水があふれたのか、水浸しになっていました。玄関から入るのをやめ、事務所のサッシ窓を開けて入りました。自分の席にあったかばんを背負い、出ようとしたが机の引き出しが全部開いていて、そこに飴が一袋あるのが見えました。二日前に避難したとき同僚から「中嶋先生はいつも机の中にお菓子とかあるのに、なんで、それ持って来ないの?」と、ちょっとからかわれるように言われていたことを思い出し、その飴の袋をかばんに突っ込みました。

中央公民館に向かうと、玄関で、吉田英夫館長さんが「早く来い!」「早く来い!」「津波が来るから、早く来い!」とすごい勢いで叫んでいました。それで早く行かなきゃとダッシュしました。

到着すると、保育所の三歳未満児の子どもたちを避難車から下ろしているところでしたので、それを手伝いました。私は一歳くらいの男の子を抱えて館内に入りました。そして二日前と同じく、二階の和室に入りました。わたしが入ったのは最後のほうでした。

内海園長も中嶋明美も「ここじゃダメだ」という大声を聞いている。方言に忠実に表現すると「ここじゃダメだ。上さあがれ!」と叫ぶ声である。

林小春所長は首に下げた笛を思いっきり強く吹いた。二階の和室から三階へと移動が始まった。

奥玉真大は中央公民館の入口から駆け上がって二階に着くと、一景島保育所の園児らだけでなく祖母と母親も避難していることを確認した。我が子二人の保育園児もいる。「コーちゃん、こんなところにいたらダメだ。死ぬぞ。上さあがれ!」と叫んだあと、待てよ、と考えた。避難が長丁場になるかもしれない。階段を駆け下りて車に乗った。

奥玉屋には水やカップ麵などの食料も売っている、店の商品を積めるだけ車に積み込もう。中央公民館の駐車場に止めてある車の運転席に坐ってエンジンをかけ、テレビのスイッチを入れた。津波によってフェリーが岸壁を越える映像が流れている。気仙沼港の映像かもしれない、そうでない他の地域かもしれない。いずれにしろこれはダメだ、と車から飛び出した。するとすでに津波が静かにひざまでひたひたと染み込んでいる。やがて中央公民館の右手の奥にある一景島保育所のさらに向こうの二階建ての建物がバリバリと音を立てて崩れていくのが見えた。車で向かおうとした道路を近所の老夫婦が歩いて来る。中央公民館に向かっている。妻のほうは夫のあとに五メートルほど遅れて歩んでいる。黒い水が野球場をさわさわと流れてきた。とっさに走り寄り、夫のほうを抱きかかえるようにして、中央公民館の非常用の外階段を昇った。津波の第一波、濁流がグラウンドの土を巻き上げながら押し寄せてきた。一人を助けるのが精一杯だった。

著者プロフィール

猪瀬直樹
いのせ・なおき

作家

作家。1946年、長野県生まれ。1987年、『ミカドの肖像』で第18回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。『日本国の研究』で1996年度文藝春秋読者賞受賞。以降、特殊法人等の廃止・民営化に取り組み、2002年6月末、小泉首相より道路関係四公団民営化推進委員会委員に任命される。その戦いを描いた『道路の権力(文春文庫)に続き『道路の決着』(文春文庫)が刊行された。2007年6月、東京都副知事に就任。2012年12月、東京都知事に就任し、2020年東京五輪の招致を成功させる。2013年12月に都知事を辞任。現在は執筆活動に専念している。

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