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沖縄から貧困がなくならない、本当の、本当の理由

  • 樋口耕太郎 (トリニティ株式会社代表取締役社長/沖縄大学人文学部准教授)
  • 2018年9月27日

アンパンとメロンパン

沖縄知事選挙を控えて、命題を提起しようと思う。

民意と選挙は似て非なる概念である。

民意と選挙は似て非なる概念である。

消費者がおにぎりを食べたいと思って買い物に出かけても、店頭にアンパンとメロンパンしかなければ、どちらかを買う以外に空腹を満たす方法はない。どちらかを選んだからといって、それが消費者の望み(民意)だとは言えない。

沖縄では、2010年の知事選挙でアンパンが選ばれた。知事はアンパンが沖縄の民意だとして県内経済をアンパンで埋め尽くした。


Photo by 岩本室佳

2014年の知事選挙では、一転してメロンパンが選ばれた。メロンパンを主張した知事はそれからほぼ4年間、メロンパン対策に県政の大半の資源を投下した。


Photo by 岩本室佳

沖縄選挙区の特徴であり問題点は、常に「経済発展」か「基地撤去」か、という二者択一に論点が矮小化されてしまうことだ。選挙のたびに、沖縄にはあたかもそれ以外の民意が存在しないかの様相となってしまうのだが、これは誤りだ。選択肢が二つしかないものの一つを選んだからといって、選択者の望みとは限らない。争点の支持・不支持は有権者の「表現の一つ」 に過ぎず、民意は選挙結果とはほとんど別のところにある。

民意から遠ざかる選挙

両陣営の争点は、はじめから民意とは無関係

店頭に(敢えて)アンパンとメロンパンだけを並べて選挙の争点を極端に絞るのは、政治家が票を取るために有効だからだ。これが沖縄知事選挙の隠れた最大の問題である。過激な言い方に聞こえるかもしれないが、論理的に考えて「両陣営の争点は、はじめから民意とは無関係だ」という大問題である。

日本では1996年に施行された小選挙区制度が重大な転換点となり、小泉首相の頃からこのようなやり方が定着したように思える。争点を絞って選挙を戦うことで、幅広い層から票を集めることができるが、民意を矮小化して政治家が有権者から白紙手形を受け取る行為に近くなる。政治家(というよりも選挙家)にとって魅力的であることは想像できるが、争点を極端に絞った選挙戦術が民主主義の精神からどんどん遠ざかる構造になっている *注1

*注1 実際、日本の投票率は、小選挙区が導入された1996年(平成8年)から、大幅に減少している。沖縄県の投票率もこれにほぼ連動している。


総務省のウェブサイトより転記


沖縄県のウェブサイトより転記

小選挙区制度のもう一つの弊害は、「政治家のサラリーマン化」が進んだことだ。小選挙区の選挙戦は、政治家個人の魅力よりも、政党同士の組織戦で勝敗が決まるために、党の趣旨に添沿わない政治家は党の公認を取得できず、どれだけ民意を汲んでいても選挙で勝ち目がない。この問題を象徴する出来事が「刺客」候補である。最近の政治家は自分の言葉を語らなくなった。まるで、役人かサラリーマンが立場でものを語っているような印象を受ける。国民市民が政治に関心を持てなくなるのは、当然のことではないだろうか。

無投票という投票

争点を絞った選挙がどんどん民意から離れていく中で、私は、もっとも民意に近いものが「非投票率」ではないかと感じている。店頭に並んでいる「アンパン」も「メロンパン」も自分たちが望むものではない、という意思表示は「無投票」という行為に少なからず現れるからだ。

例えば1997年12月21日、普天間飛行場の受け入れの可否を決する際の名護市の市民投票の投票率は82だった。そこに関心のある論点が存在すれば、市民は投票へと動くのだ。国民市民が政治に無関心だというが、より正確には、選挙戦術のための「アンパン」や「メロンパン」に関心がないということだろう。

「納得できるものでなければ、選択しない」という意思表示

選挙権を行使することはいいことだとされている。大人たちは「みんな選挙に行こう」と呼びかける。しかし、本当は、国民市民のほぼ全員が、すべての選挙に、実質的に投票を行っているということはないだろうか。「おにぎり」が店頭に並んでいなければ、お店(選挙)に出向かない、という声なき投票行為だ。国民市民は政治に関心がないのではない。彼らは投票に関心がないだけなのである。「納得できるものでなければ、選択しない」という意思表示は清々しくさえある。

9月に投開票が行われたばかりの沖縄県の統一地方選挙の投票率は、名護、沖縄、宜野湾、南城、宜野座、西原、読谷、北中城、八重瀬の9市町村で過去最低。辺野古移設で揺れる名護ですら史上最低を記録し、沖縄市ではついに50%を切った自治体の選管職員は「何をしたら投票率が上がるのか分からない」と苦悩する。


Photo by Ryosuke Sekido (CC BY 2.0

投票率の低下を嘆く政治家は、国民市民が政治に無関心だという。「あなたの票があれば、国は変わる。なぜ、こんな国を変えないのか」と呼びかける。選挙管理委員会は、みんなでアンパンかメロンパンを食べに行こう、とキャンペーンを展開する。店に出向かずに、宅配制度(つまり、電子投票のことだ)を始めたらこの問題は解決する、と言う評論家もいる。しかし、これらの議論は、民意とは別のところにある。


Photo by 岩本室佳

こういう発想はどうだろう。国民市民の投票率は常に100%なのだ。そもそも、国民市民が自分の生活に、子どもたちの将来に、関心を持たずにいられるわけがないではないか。政治家が、評論家が、大人たちが、国民市民の声なき声を真剣に理解しようとせずに、有権者の政治的無関心の問題にすり替えている。特に小選挙区制度の導入以降、政治家は選挙に関心を持ちすぎるようになり、国民市民の声なき声(つまり本来の政治)に関心を失ってしまった。つまり、政治の最大の問題は、人に対する関心のなさにあるのだ。

小選挙区制度の導入以降、政治家は選挙に関心を持ちすぎるようになり、国民市民の声なき声(つまり本来の政治)に関心を失ってしまった

実質的な意味で、沖縄最大の政党は「無投票党」とでもいうべきサイレント・マジョリティで、その勢力はほぼ有権者の半数に達する。沖縄社会が問題だらけであることは明らかだが、サイレント・マジョリティは「保革どちらが県政を担当しても、沖縄問題を解決する答えを、誰も持っていない」ということを直感的に知っているのだ。彼らが「無投票党」に加わるのは当然の行動だろう。

沖縄最大の政党は「無投票党」とでもいうべきサイレント・マジョリティ

もし私が選挙対策を担当するならば(あり得ないが)、サイレント・マジョリティの声なき声を、直感と経験と試行錯誤を頼りに探すだろう。これは私が強く感じることだが、大多数のウチナーンチュの最大の関心ごとは、怒りと悲しみと恨みと憐れみが混じったおきまりの沖縄論ではなく、政治的な意図が見え隠れする報道でもなく、もう戻ってこない過去の物語でもなく、「現在の、沖縄の、本当の問題を知りたい」ということではないかと思う *注2

*注2 例えば、首里出身のシンガーソングライター、アラカキヒロコが描いた「ナライブサン」は、沖縄のサイレント・マジョリティの心を代弁しているように感じられる。

私の言葉 聞こえますか 知恵を授けて欲しいのです
愚かな私を笑わないで
歌いたい 踊りたい 学びたい

彼女の詩は、いままで多く書かれてきた、悲しい沖縄、傷ついた沖縄、怒りの沖縄、美しい沖縄、郷愁の沖縄、楽しい沖縄・・・それらのいずれとも違う。沖縄の光と影を直視し、現実の問題から逃げずに、そしてこの問題を解決するための答えをまだ誰も(自分も)見つけていないという事実からも目をそらさずに、誰を恨むことも、誰を責めることもせず、自分自身の内に答えを見出すために、「私の無知を笑わないで」、「学びたい(ナライブサン)」と訴えかける。

沖縄の現実

私が沖縄タイムスの電子版で連載している論考、「沖縄から貧困がなくならない本当の理由(1)〜(7)」は、「現在の、沖縄の、本当の問題」を記述する一つの試みだ *注3

*注3 私が議論している問題は、沖縄社会の問題であって、ウチナーンチュの問題ではない。ウチナーンチュであっても、この社会構造から逸脱した人材は、創造的だし、自分を生きている。反対に、本土出身者も、沖縄社会で生活するようになると、この問題の症状を現し始める。場合によっては、現状維持を至上とする「極めて沖縄的」な症状の中心に、本土出身者がいたりする。

最近発表した「沖縄から貧困がなくならない本当の理由(7)貧困の合理性」で、「沖縄の貧困は、給与を支払う経営者、給与を受け取る労働者、企業に売上を提供する消費者、それぞれの事情が折り重なって生じる経済現象であり、背景には、変化を避ける沖縄独特の社会性がある」という見方を提示した。

なぜウチナーンチュが変化を避けるかといえば、沖縄社会では、人一倍努力したり、周囲と違った行動で目立ったり、自分の意見を口にしたり、個性を発揮したり、創造的に活動する人たちに強い社会的な圧力がかかるからだ。新しいことは「社会的なタブー」であり、自分の意見を持つことは「良くないこと」であり、個性ある者はやわらかに、しかし強固に排除される。議論することは和を乱すことであり、成功するよりも(特に人間関係で)いかに失敗をしないかが重大な関心ごとだ *注4

*注4 沖縄の社会・文化的な特質については、「『変われない沖縄』が生まれ変わるために」(ポリタス2015年7月12日)参照。

ウチナーンチュであれ、本土出身者であれ、この暗黙のルールに抵触する人は、沖縄社会で自分の居場所を確保することが難しい。このような社会構造下ではイノベーションが生じにくく、生産性が奪われて貧困が生じる……。

この論考には、ウチナーンチュが読めば心が苦しくなるような内容も多々含まれている。決して肌触りの良いものではない。わざわざ辛い思いをせずに、目を伏せれば良さそうなものだが、これまで100万人以上に読まれている。書かれた内容に賛成している読者ばかりではないと思うが、それでも、これほど多数の人が関心を寄せたという事実からは、「現在の、沖縄の、本当の問題を知りたい」というウチナーンチュの強い気持ちが感じられるのだ。

現状維持を支えるウチナーンチュ気質

沖縄社会が現状維持を優先するのは、人間関係の摩擦を避けるためだ。しかし、そこには不思議さもある。

別に、同僚との関係が多少こじれても、自分の成長のためにより責任ある仕事を選ぶことは誰にでもできるはずだし、実際沖縄を一歩出れば、世の中の多くの人はそうしている。他人から少し変わっていると思われても、自分の好きなものを自由に買っている人も世の中には数多くいる。

経営者は、人と違った独自の経営哲学を持ってこそ他者との差別化が可能なはずだし、そもそも、新たな価値を生み出すことが経営の本質なのだ。勇気を奮って未知の事業に挑戦したり、波風が立つことを承知で優秀な人材を採用したり、従業員を手厚く処遇することは、事業採算が取れる限りまったく自由である。


Photo by fto mizno (CC BY 2.0

それにも関わらず、多くのウチナーンチュは――労働者であっても、消費者であっても、経営者であっても――目立たず、波風を立てず、周囲の期待どおりに生きることを、無意識に、しかし積極的に選択しているようなところがある。そのために、自分らしさを諦めることになっても、だ。

「自分らしさよりも場の空気を優先する」というウチナーンチュ気質

現状維持の沖縄社会構造を作り出した根本原因には、「自分らしさよりも場の空気を優先する」というウチナーンチュ気質がある。

自尊心

私が自尊心について考えるきっかけになったのは、沖縄大学の多くの学生との関わりを通じてである。私は大学で『幸福論』という授業を開講しているが、学生たちを対象とした幸福度調査の膨大なデータの中で「自分には魅力がない」「自分は頭の回転が遅い」といった、自尊心に関わるスコアが特に低いことに気がついたのだ。

沖縄の大学進学率は約40%だから、彼らは同年代中、上位40%の学歴を持つ「エリート」である。彼らが輝かなければ、沖縄に未来はない。その彼らが、自分自身に対して肯定感を失っているという大問題だ。


Photo by Dick Thomas Johnson (CC BY 2.0

心理学者ブレネー・ブラウンは18歳から87歳までの様々な立場に置かれた世界中の人たちの体験談を10年以上にわたって聞きとり、人間の行動パターンを調べてきた。彼女の膨大なデータが示していたのは、どれだけ弱点があっても、境遇に恵まれなくても、そんなことにはお構いなく、生き生きと充実した人生を送っている人たちの存在だ。彼らに唯一共通している点は、「自分はありのままで愛される価値がある、と信じている」ということだった。これが自尊心である。

自尊心とは、裸の自分に対する信頼感であり、自分を無条件に愛する覚悟であり、ありのままの自分を尊敬する力のことだ。お金、地位、役職、仕事、経歴、家族、人間関係、歴史、人種などなど――物質的、表面的なすべてのものを剥ぎ取った後で自分に残るもの、と言えるかもしれない *注5

*注5 劣等であることと、劣等感は違う。自分の能力が劣っていても、それ自体で自尊心は傷つかない。小学2年生は、6年生よりも知識が少ないからといって、劣等感に苛さいなまされるわけではないし、その必要もない。試験に落ちたから、自尊心が毀損するわけでもない。劣等である自分を受け入れることができる人は、逆に劣等感を持たない。2年生が6年生のふりをするから劣等感が生じる。

「不合格になったら、人から受け入れられない」と(勝手に)思い込んだ瞬間に、自尊心が傷つけられ、つながりが失われ、孤独になる。自尊心の低さは、能力の低さや、失敗や、魅力のなさによるものではない。主観的な所属感の欠如が引き起こす。

逆に、「自分は誰かに受け入れられている」と感じていれば、何回試験に落ちても自尊心が毀損することはない。試験の合格不合格は、実は初めから問題ではない。自尊心を傷つけるのは、いつも自分自身だ。

自尊心とはとても主観的なものだ。自尊心の高い人は、自分は人に好かれ、愛され、人を惹きつけると感じる傾向が強いが、他者による客観評価とはまったく一致しないことがわかっている(Baumeister, Roy F., et al. "Does high self-esteem cause better performance, interpersonal success, happiness, or healthier lifestyles?." Psychological science in the public interest 4.1 (2003): 1-44.)

「ありのままで愛される価値」とは、自分の力量を誇示したり、家柄を誇ったり、自分を大きく見せようとしたり、自分の姿に見とれたりすることとはまったく違う。いわゆる「プライド」とも違う。むしろその正反対に近い。

自尊心の高い人は、自分を必要以上に大きく見せる必要を感じないから、威張らないし、自慢しない。彼らは、失敗を隠さず、自分の弱さや欠点を認め、間違えれば素直に頭を下げ、打たれ強い。「人は誰でも間違える。誤った行動は正せばいい」と考えるから、行動の失敗を人格の欠如と受け止めない。人格が傷つかないから失敗を恐れる理由がない。ありのままの自分を恥じないから、オープンで隠し事をしない。

彼らは、人から認められるために何かをするのではなく、自分の仕事に純粋な価値を感じているからやる。満ち足りているから、何かをしてもらうよりも、何かをしてあげることに関心がある。他人の目を気にせず、自分に嘘をつかず、自分を大切にするから、自分の意にそぐわないことに対して率直にNOと言える。自分らしさを大切に生きているから、他人の目を気にせず打たれ強い。「嫌われる勇気」を持ち、カッコ悪い自分に胸を張れる真の勇者である。そんな人物は成功しないわけがない。

自尊心の低い社会から、イノベーションは生じ得ない

逆に、自尊心が毀損されると、人生において実に様々な問題が生じてくる。自尊心が低い人は、失敗(正確には、失敗そのものよりも、失敗によって人から軽蔑されるリスク)を恐れ、挑戦を避ける傾向がある。失敗を恐れる人は創造的であり得ない。自尊心の低い社会から、イノベーションは生じ得ない。

自尊心の低い人は、他人の出方によって自分の行動を決めるから、自分らしく生きることが難しい。挑戦を避けて成功を逃す一方で、人の成功を羨み、成功者の足を引っ張り、現状維持を好む。体面を保つためには不正をしやすく、他人への関心が低く、被害者意識が強く、暴力的で、幸福度が低い *注6

*注6 自尊心は、幸福度(life satisfaction)と強い正の相関があることも知られている。お金、友人、家族関係に満足していても、自尊心が低ければ幸福を感じにくいし、うつ的症状を引き起こす可能性も高い(Diener, Ed, and Marissa Diener. "Cross-cultural correlates of life satisfaction and self-esteem." Culture and well-being. Springer, Dordrecht, 2009. 71-91. およびOrth, Ulrich, Richard W. Robins, and Brent W. Roberts. "Low self-esteem prospectively predicts depression in adolescence and young adulthood." Journal of personality and social psychology 95.3 (2008): 695.)。

自尊心の低さは、自殺、うつ、暴力、攻撃性、依存症、いじめ、摂食障害などの問題と強い相関があることが分かっている(Brené Brown, TED 2012 "Listening to Shame")。

自尊心と沖縄社会

ここで考えざるを得ないことは、自尊心の低さが引き起こす、依存症、暴力、いじめ、自殺などの問題と、沖縄の社会問題の多くが重複しているという事実である。

例えば、あまり知られていないことだが、沖縄の自殺率は全国で突出して1位である *注7 教員のうつも突出して全国1位殺人、強盗、レイプなどの凶悪犯罪も全国と比較して高水準で、年度によっては全国1位だった。飲酒などの依存症深酒路上寝飲酒事故若者の飲酒と暴力DV少年犯罪児童虐待などの多さも指摘されている。

頑張る人(ディキヤーフージー)に対するほぼ無意識の「いじめ」も沖縄社会の特徴だ。

*注7 若者は中高齢者と比較して自殺しにくい傾向がある。このため、若者比率の高い沖縄県では、対人口比での自殺率は1番ではない。しかし、死亡者数に対する自殺の割合を取ると、沖縄が全国で突出していることがわかる。

目立つことを恐れて昇進を断ったり、真面目に仕事をしながら低賃金に甘んじたり、周りからどう思われるかを恐れて言うべき意見を控えたり、張り切る上司に(無意識に)サボタージュをしてみたり、派手だと思われそうな消費を控えたり、どんなに質が悪くても一言も文句を言わずに知り合いの店から買い続けたり、業界の序列を尊重して新規事業を控えたり……。いずれも自尊心が低い人の行動原理として説明できるように思われる。

ドアマット

ペンシルベニア大学の心理学者アダム・グラントは、「人との関わり方」によって人間の成功が大きく左右するという理論を発表して話題になっている。

人間を、他人の利益を真っ先に考える贈与型、フェアな関係を望む取引型、自分中心の獲得型に分類すると、もっとも生産性の低い人が贈与型であることがわかった。しかし同時に、もっとも生産性の高い人も贈与型なのだ。これは、贈与型に2種類のタイプが存在することが示されている。

もっとも生産性の高い贈与型は、人に優しいが自分のことも大切にする、自尊心の高いタイプである。一方で、もっとも生産性の低い贈与型は心優しいが自尊心が低く、常に他人に合わせて行動する「ドアマット」タイプである。このタイプは獲得型と比較して収入が14%低く、犯罪の被害者になる確率が2倍で、力を評価されることも22%低いという(Grant, Adam M. Give and take: A revolutionary approach to success. Penguin, 2013.)。


Photo by Kelly Parker McPherson (CC BY 2.0

貧困は経済問題ではない。自尊心の低さが招く心の問題だ

学生たちの話を聞いていると、ブラック企業で働き、最低賃金で残業代も出ず、無理やり正月にシフトを入れられながら、店長からお礼を言われると「私みたいな者でも人の役に立つのだ・・・とほっこりうれしくなってまた頑張る」などと言う。自尊心が低い人は、他人からドアマットのように踏みつけられることを「仕方がないこと」と思い、それどころか、そんな雇用主に感謝している。貧困は経済問題ではない。自尊心の低さが招く心の問題だ。

控え目さと無神経さ

沖縄社会は、控え目さと無神経さが、不思議な形で混じり合っている。

岡本太郎の名著『沖縄文化論』に、岡本太郎が宿泊したホテルでのエピソードが紹介されている。夜明け前に、誰かがたどたどしい一本指でピアノを弾き始めたおかげで、眠ることができなかったのだ。太郎が、睡眠を諦めて朝食会場に行くと、ホテルの給仕の女の子が熱心に練習をしていた。

コノヤロー、と荒々しく卓についたが、彼女は平気で、振り返りもせず叩き続けている。ところが、やがて静かにピアノの蓋をしめると、メニューをもって、「何になさいますか」とまったく悪びれた様子がない。こんなかわいらしい、気の弱そうな目つきをした小娘のたてるバカ音と、夢の中で悪戦苦闘してきたのかと、気が抜けてしまう。(中略)音とお客に対する無智、無神経には腹はたつが、しかしあまりの無邪気さが、逆に可愛らしくなる。

太郎が、このことを周囲に漏らすと、

・・・これを聞きつけて、ご丁寧にもわざわざホテルに知らせた者がいるらしい。ホテル側はひどく恐縮して、気を使いだした。その後は大へんなもの。「どうもサービスが行き届きませんで」と繰り返し謝りながら、ハラハラしてついて歩く。この善良な人たちに何とも気の毒な気がした。

この出来事は1959年米軍統治下の沖縄である。現在沖縄のホテルに宿泊しても、こんな体験をすることはないだろう。エピソードはあくまで象徴的なものだ。しかし、なんとも言えない善良な控え目さと、それとは対照的な、無神経さ(のようなもの)が共存するウチナーンチュの行動原理は、現代でも残っていると思う。

この現象をどのように理解したらいいのか、ずいぶん長い間言葉にしあぐねていたが、これも自尊心という言葉で理解できるのでは、と考えるようになっている。

人間関係に波風を立てないためには、自分の意見を口にしたり行動したりする前に、他人の気持ちや動きを注意深く観察して、相手の出方に合わせることが適当だ。多くの本土出身者は、自分たちの強いリクエストに対しても、(少なくとも表面的には)嫌な顔をせずに受け入れるウチナーンチュの「控え目」さに驚かされる。

一方で、人の出方に合わせて自分の行動を決めるという行動原理は、人が許す限りにおいて、それが「無神経」であっても、選択することを妨げないという意味だ。

他人の意見と行動を基準に自分の行動を決める生き方は、自尊心の低い人に典型的な特徴でもある。この行動原理の最大の問題点は、自分を生きることがとても難しくなるということなのだ。

人材育成と自尊心

シリコン・バレーで活躍するガイ・カワサキは、2013年のTEDxコンファレンスでスティーブ・ジョブズの人事哲学を披露している。

自尊心の高い「Aクラスの人材は、自分よりも優秀な人材を雇おうとする」。その一方で「Bクラスの人材は、自分の地位を守るためにCクラスの人材を採用しがちだ。そして、採用されたCクラスの人材はDクラスの人材を採用し、組織の人材はどんどん劣化していく」(Guy Kawasaki at TEDxUCSD, "Lessons of Steve Jobs" )。

自分に自信がないBクラスの人材は、自分の居場所がなくなることを恐れて、人を育てきれない。

例えば、ホテルの厨房では、先輩職人たちが若い職人に料理を教えたがらないということがある。基礎修行を大切にするという意味もあるが、若手が自分の実力を上回ってしまったら、自分の居場所がなくなってしまう。だから、利用できる人材は可愛がるが、本当に「できる」人材はやんわりと、しかし残酷に潰しにかかる。


Photo by Olga Pavlovsky (CC BY 2.0

沖縄社会では、できる人は重宝される。しかしとてもできる人は無視される

有能な人材を「潰す」といえば物騒だが、ほとんどの人は無意識で、悪意すらない。多くみられる方法の一つが、単に無視するというやり方だ。どれだけ価値のある仕事をしても、あたかも無価値であることのように、ほとんどそこに存在しないかのごとく扱う。有能な人材は、全力で成果を上げれば上げるほど傷ついていく。沖縄社会では、できる人は重宝される。しかしとてもできる人は無視される。

自尊心の低い沖縄社会から有能な人材が育ちにくいのは、このような原理が働いている可能性がある。その結果として、沖縄社会は深刻な人材不足に苦しんでいるが、補助金を活用した人材育成プログラムや、企業研修制度などは、人を育てるということの重要な本質を見誤っている。本気で有能な人材を育てようと思うのであれば、自尊心の高い人材に教育を任せなければならない。人材育成の質とお金は、ほとんど無関係である。

リーダーシップと自尊心

自尊心の高い人材は、自尊心の高いリーダーにしか育てられない。しかしながら、沖縄社会には、頑張る人材、目立った人材、個性的な人材をことごとく排除する社会構造が存在するため、そもそも自尊心の高い人材が登用されにくい。沖縄の社会構造においては、変化しないことが経済的にも合理的であった *注8 ため、大きな変化をもたらしそうな自尊心の高いリーダーは不必要だったとも言える。結果として、人当たりが良くて敵が少なく、あまり変化を引き起こさず、業界秩序を守るタイプのリーダーが登用されてきた(と思う)。

*注8 前出「沖縄から貧困がなくならない本当の理由(7)貧困の合理性」参照。

以前、沖縄経済の「自立」について、沖縄側から「われわれは魚(補助金)ではなく、魚を取る釣竿(事業)が欲しいのだ」という主張がなされたことがあった。しかし、心理学的には「釣竿をくれ」と言うこと自体が、自尊心の低さを示している。自尊心の高いリーダーは、「自分自身釣竿を作れるようになりたい。精一杯頑張るのでご指導ください」と謙虚に教えを請い、自分で失敗を重ねながら学んでいくだろう。人に素直に頭を下げ、価値ある失敗を積み上げることができるのは、自尊心が高い人間の大きな特徴なのだ。

長男と自尊心

沖縄社会のリーダーシップは、長男の特質とも関わりがある。沖縄長男 *注9 の問題を記述することはセンシティブで難しいが、これが沖縄社会を代表する問題の一つだと言うことに異論を唱えるウチナーンチュは少ないだろう。

*注9 ここでは、文字通りの意味での沖縄長男というよりも、「長男的な存在」全般についての議論だと理解されたい。どの事例にももちろん多くの例外はある。まったくこのような問題が存在しない家族もあるだろうし、長男の代わりに次男、あるいは長女が同様の問題を抱えている場合もある。

男性優位の沖縄社会の長男は、なにかにつけて優遇されてお得な存在にも見えるが、人間関係の制約をもっとも受ける宿命に生まれついている。それゆえに彼らは自分の声を上げようにも上げられず、思うように失敗も許されず、自分らしく生きることが難しく、自尊心が毀損されがちで、打たれ弱い。

彼らの生き方は、サーカスの子ゾウにも似ている。サーカスの子ゾウは、鎖で杭につながれて毎日を過ごす。子ゾウは鎖から逃げようと散々もがくが、そのうち自由になることを諦める。大人になり、杭を抜く力を持っても、じっと動けないまま。自分にはたいした力がない、と思い込んでしまったからだ。一度諦めたゾウは、その後どんな大きな体に育っても、力を発揮する意志を失うという。


Photo by Laura LaRose (CC BY 2.0

沖縄の長男は、「鎖の範囲内」である限り、あらゆることに恵まれる。家督、財産、事業承継。一族からは一目置かれ、常に皆の関心の真ん中にいる。ただ、彼らには自分を生きる自由だけがない。

現代の沖縄は、成功した創業者が非常に少ない地域だ。「県内の創業企業の多くは、創業期から数年経過しても事業規模が大きくならず途中で行き詰まり倒産してしまう。または倒産せずともそのうち衰退し閉業してしまうような事例が多く見られる」。新しいものを嫌い、昔ながらの商品を買い続ける消費者に、新規の事業者が受け入れられることは、容易なことではないからだろうか。

現代の沖縄の主要企業の代表者は、戦後の沖縄を切り開いてきた創業者の父を持つ2代目、3代目が多い。彼らは親の期待に添うよう必死に頑張るのだが、うまく引き継いで当然、失敗は許されない。沖縄社会では、ただでさえ新しい取り組みに挑戦することが難しい。加えて、身内、利害関係者とのしがらみや、守るべき遺産が大きすぎて、「鎖の範囲」を飛び越えることができないから、自分の個性を出すことが難しい立場にある。

初代は戦後動乱期に大活躍した豪傑が多いから、その子どもたち(特に長男)は、どれだけ努力しても、常に親の期待には添えきれない。そんな自分を心のどこかで責めがちだ。甘やかされる一方で、冒険をしてこなかったから、失敗の経験も少ない。自分を生きる勇気を持てなければ、自尊心は育たない。そして、自尊心の低い2代目の元で、自尊心の高い3代目が育つ可能性はさらに低くなる

自尊心無くして成功なし

偉大な創業者が、自尊心の高い2代目を育てる方法はほとんど一つしかない。「お前がこの会社を好きにしろ。生かすも潰すもお前の自由だ」と腹をくくって任せることだ。どれだけ家柄がよくても、どれだけ高い教育を受けても、どれだけ頭脳明晰でも、どれだけ人脈があっても、どれだけ資本が潤沢でも、2代目が自尊心を高く持ち、自分らしさを発揮して生きない限り、長い目で見て企業は衰退を免れない。

無数の歴史学者、心理学者、政治学者が米国の大統領を分析した結果、もっとも実績の乏しい大統領は、民衆の意図の通りに行動し、また、前任者の方針を引き継いだ者であった。

逆に、偉大な大統領は現状を破壊して国家を改善した。しかしこの姿勢は、国民からどう思われていたか、あるいは、社会と調和がとれていたかどうかということとは無関係だった。


Photo by MIKI Yoshihito (CC BY 2.0

自尊心の高いリーダーは人と違う発想を持ち、人と違うことを行うから、人とぶつかることが多い。だからといって、人に関心がないというわけではない、むしろその反対だ。1万5000人の起業家をカバーした60件の包括調査によると、人を喜ばせることに関心の乏しい人は起業家になりにくく、起業家になったとしても事業のパフォーマンスは芳しくない。

アブラハム・リンカーンは、米国の歴代大統領の中でもっとも偉大な人物だとされることが多い。まさに「現状を破壊して国家を改善した」大統領の筆頭である。その過程では、国民からの反発も多かったし、社会と調和が取れていたとはとても言えない。しかし専門家は、他者のために行動し争いを避ける、という点についてリンカーンが歴代1位だと評価している。市民に対して毎日4時間のオフィスアワーを開き、南北戦争の脱走兵を赦した。奴隷解放宣言に署名する前には6ヶ月間も苦悩した。自分にはそもそも憲法上の権利があるのか、ボーダーにいる州からの支持を失い、戦争に負け、国を崩壊させるのではないかと悩み続けた結果である(Grant, Adam. Originals: How non-conformists move the world. Penguin, 2017.)。


Photo by Roman Boed (CC BY 2.0

政治活動と自尊心

政治運動やスポーツのファンなどは、同じ情熱のもとに集結する人たちである。特別なグループに属すると、自己の存在を強く意識することができるため、自尊心の低い人ほどグループと密接に関わろうとする傾向がある。スポーツの熱狂は、ファンたちを巨大で力強い組織の一員であるかのように錯覚させ、この感覚は、チームが勝てばいっそう強化される。強いチームとつながっていると思えれば、自尊心が低い人たちも優越感を抱くことができるからだ(ヘンリー・タジフェル、ジョン・ターナーの「社会的アイデンティティ理論」)。

社会心理学者のロバート・チャルディーニが米国の大学生を対象に行った研究によると、週末母校がフットボールの試合に勝つと、月曜日に大学のロゴ入りシャツを着る確率が高まった。チャルディーニはこのことを「反射的栄光浴」と呼んでいる。他人の栄光を反射して恩恵に浴するという意味である。


Photo by Erik Drost (CC BY 2.0

当然ながら、他人の恩恵に浴することは、自分の栄光とは関係がない。実際、ファンは、心理学者が「没個性化」と呼ぶ状態にある。グループに属することで自尊心を失うのだ。

多くの人の、「つながりを求めたい」という気持ちに効果的に応えるパターンの一つが、「敵」に対峙してまとまることであり、これが沖縄ナショナリズム(本土から見ると左派になる)高揚の一因になっているような気がする。

ほとんどの人は無意識なのだが、つながることが一義的な目的であるため、「敵」は恣意的に決定される。

ほとんどの人は無意識なのだが、つながることが一義的な目的であるため、「敵」は恣意的に決定される。一般的には、「アンパン」や「メロンパン」などの、分かりやすいものが選択される。これが、本質的な経済問題としては、はるかに重要であるはずの貧困よりも、振興計画が常に優先されたり、また、本質的な基地問題としては、辺野古よりもはるかに重要であるはずの浦添新軍港にまったく議論が向かなかったりする理由ではないだろうか。

もし人々の(無意識の)関心が、人とつながることにあるならば、表面上の政策論は、社会全体にとって本質的に重要かどうかという基準で選ばれにくくなる。人のつながりたい、という気持ちに働きかければ票の獲得に効果がある。つまり、自尊心の低い社会が、表面上のつながりを強く求めようとすると、政治が民意から遠ざかるのだ。

自尊心の低い社会が、表面上のつながりを強く求めようとすると、政治が民意から遠ざかる

以上の現象はすなわち、選挙という観点においては、(本当に失礼な言い方だが)政治家が有権者の自尊心の低さを自分の票に換えている、ということでもある。しかし、有権者もまた、自分の自尊心の低さを埋め合わせるために、「わかりやすい」リーダーを望んでいるということだ。わかりやすい選挙公約自体が社会の正常化を遠ざけているにも関わらず、である。もちろん、ほとんどの人は無意識である。

メディアと自尊心

さらには、メディアも同じ構造にある。自尊心の低い視聴者・読者から部数を獲得するには、県民がつながりを感じられるような、「わかりやすい」メッセージが一番だ。おきまりのトーンで何度も繰り返されるメッセージ自体には新奇性がない。そのメッセージを通じて、つながりの感覚が生まれ、孤独感が一瞬癒やされる(ような感覚になる)ことが、隠れた最大の効果なのではないか

沖縄の立場を「代弁」して強く論じている人たちに共通する点は、沖縄に強い思いがあり優秀だということだ。悲劇的なことに、沖縄社会は多様性と変化をもたらしそうな、彼らのような優秀な人材を嫌う

沖縄のメディアは、沖縄地元愛と、基地問題に対する反骨と、本土政治に対する批判的な論調で知られている。そして沖縄の基地問題、独立問題、民族問題、政治問題について、沖縄の立場を「代弁」して強く論じている人たちに共通する点は、沖縄に強い思いがあり優秀だということだ。悲劇的なことに、沖縄社会は多様性と変化をもたらしそうな、彼らのような優秀な人材を嫌うのだ。ウチナーンチュは沖縄社会で自分の居場所を確保するために、驚くほどの細やかさで人生を生きているのに、彼らのような「異分子」が居場所を見つけられる可能性は高くない。

居場所を見つけるために、もっとも効果的な行動の一つは、沖縄のために「何か」と闘うことだ。沖縄の「敵」である日本政府に対して、激しく対抗すればするほど、沖縄から感謝され、受け入れられている感覚を得る。

沖縄の基地問題に関連して、激しく論陣を張っているある人に、こう尋ねたことがある。

「私の勝手な印象かもしれませんが、あなたが本土に対して激しく反発する気持ちの中に、ひょっとしたら、沖縄に自分の居場所が欲しい、という気持ちが混じっているということはありませんか?」

その問いに、彼からの反応はなかった。

人は誰でも、愛と帰属意識を求めている。それ以上に強い感情は存在しないと言って良い。表面上は、事業、政治、メディア、子育て――という形を取っていたとしても、その行動の下にある深い動機は、愛とつながりを求める強い気持ちであることはあまりに多い。

沖縄問題の解決にもっとも必要なことは、闘うことではなく、癒やしなのだ

優秀な彼らの、沖縄を愛する気持ちと、その沖縄から受け入れられたいという(孤独の)苦しみが、結果として、恣意的な「敵」を県外に作り出し、沖縄問題を県外に追いやっていなかっただろうか。悪意のまったくないその結果、私たち沖縄県民が、いいところも、そして、悪いところも含めて、自分自身をしっかり見つめる習慣を失ってしまったら、問題は永遠に解決しない。

沖縄問題の解決にもっとも必要なことは、闘うことではなく、癒やしなのだと思う。

ナイチャーと自尊心

沖縄は、本土的な価値観では測れない、見かけとはまったく異なる社会だ。本土出身者の多くは、沖縄が「楽」だから、あるいは「優しい」からという理由で移住するが、おそらく真実はその反対だ。沖縄市場は日本でもっとも難しい場所と言えそうだし、沖縄社会の人間関係の厳しさは本土出身者の目には見えない。この地ほど社会と人間と自分自身に向き合わせられる場所も珍しい。

ウチナーンチュは沖縄の息苦しさと社会の矛盾と、人間関係の難しさを直感的に理解しているので、「沖縄が好き」という本土出身者を心から信用できない

本土出身者はよく「沖縄が大好き」だと口にするが、ウチナーンチュは沖縄の息苦しさと、社会の矛盾と、人間関係の難しさを直感的に理解しているので、「沖縄が好き」という本土出身者を心から信用できない(と思う)。沖縄をありのままに見つめたら、「沖縄が好き」と軽々しく口にできないことを知っているからだ。

「沖縄が好き」という理由で沖縄に来る人は、逆に考えれば、沖縄が嫌いになったら本土に戻るという意味だ。沖縄の良いことにも悪いことにも向き合った後でなお、この地を愛する人間であるかどうかを、ウチナーンチュは静かに見つめているようなところがある。

本土から沖縄に移住した私が言うのもおかしなものだが、沖縄に移住する本土出身者の多くは、何かから逃げている人が多いと思う。彼らは「沖縄が好き」と言うが、実は「本土が嫌い」ということの裏返しとして、沖縄に(勝手な)理想を抱いていることが多い。私の推測だが、流れるようにして沖縄に移り住んできた本土出身者もまた、自尊心の低さに苦しんでいるのではないだろうか。沖縄社会の自尊心の低さが、自尊心の低い移住者を惹きつけているのかもしれない。

孤独と自尊心

自尊心の低い人は、孤独な人たちである。

人間にとって孤独の痛みは破壊的だ。だから村八分は村社会の極刑に値するし、学校のいじめは、子どもにとって何よりも残酷な仕打ちだ。孤独は最大級の心の苦しみであることはもちろん、生理的にも深刻な健康被害をもたらす。社会的孤立は、高血圧や肥満、運動不足、喫煙に匹敵する害を及ぼすし、孤独な人は社会的に満足している人よりも、はるかに病気にかかりやすい。孤独は不幸せの最大の原因の一つでもある(ジョン・カシオポ、ウィリアム・パトリック『孤独の科学』柴田裕之訳、河出文庫、2018年:25-31、152−156、171参照)。

人とのつながりは、文字通りの意味で人間にとっての命綱だ。人は孤独の恐怖を避けるためならほとんどどんなことでもする。自分の命さえも賭ける。愛と帰属意識(「愛されているという確信」と「自分の居場所の存在」)は、あらゆる人間にとって、決して削ることができない基本的欲求である。

孤独について重要な本質は、一人でいることと孤独は、まったく別のことだということだ。どれだけ人気者であっても、どれだけ人に囲まれていても、どれだけ社交的であっても、激しい孤独感に苛まされている人は珍しくない。世界中の人から愛された、ジュディ・ガーランドマリリン・モンローダイアナ元皇太子妃マーロン・ブランドたちも、孤独な人たちだったことはよく知られている。

孤独の正体は、「その人が人間関係をどう捉えているか」

身体的な魅力の有無や、知性の程度、人気のあるなしも、孤独とは無関係だ。孤独の正体は、「その人が人間関係をどう捉えているか」であって、まったく主観的なものなのだ。周りから見る人間関係とは何の関係もない。孤独を癒やそうとして、盛大なパーティーを開いても的外れである。どれだけ「孤立」を解消しようとして支援しても、「孤独感」が癒やされなければ、問題は永遠に解消しない。

孤独感を癒やすためには、愛と帰属意識を持つことが不可欠だが、愛と帰属意識を感じるための条件とは、「自分はありのままで愛される価値がある、と信じている」こと、つまり自尊心なのだ。

孤独感と同様に、自尊心もまた、完全に主観的なものである。自分の価値を心の中で信じられなければ(つまり、自尊心がなければ)、どれだけ人混みの中に身を置いても、どれだけ友人を作っても、どれだけ人から愛されても、孤独感を解消することはできず、苦しみの人生を歩むことになる。

よろい

自尊心が低い人は、「ありのままの自分」に価値がないと思っているから、他人に対して本当の自分をさらすことができない。他人に心を開くことができなければ、人とつながることはできない。かといって、孤独でいることには耐えられないから、人から関心を持ってもらうために、「よろい」を身にまとおうとする。


Photo by Brad (CC BY 2.0

人の関心を強く引くものであれば、なんでも「よろい」になり得る……名声、権力、コントロール、人脈、大きな事業、学歴、お金、株、絵画、車、付き合う女性、SNSのフォロワーの数、TV出演、優勝、賞賛、ファンの数、宗教――結婚相手の職業、高価な宝石、ファッション、美容整形、専業主婦、おしとやか、妊娠、子ども――ときには貧困や病気や障害なども「よろい」として使われる。目立つことが難しい沖縄社会であれば、「いい人」であることや、被害者になることも「よろい」だ。

これらを獲得するための必死の努力は、一見積極的な行動のように見えるが、実は「価値のない自分」を覆い隠すための後ろ向きな作業でしかない。きらびやかな「よろい」をまとって人に囲まれれば、孤立は解消するかもしれない。しかし、望む限りの「よろい」を手に入れても、どれだけ人に囲まれていても、自尊心がなければ、孤独の苦しみからは逃れることはできない。孤独感の原因は、「自分は、ありのままでは愛される価値がない」という、自尊心の低さに起因するからだ。

麻酔

人間は、自分を肯定できないと感じるとき、自分が不完全で劣っていると感じるとき、他人に対して恥を感じ、愛と帰属感を失い、激しい孤独の痛みを感じる。心理的孤独感は、自分という存在を恥じるがゆえに、人とつながる可能性から締め出され、その状況を変える力を持たないという、人間が経験しうるもっとも破壊的な感情で、数々の中毒や依存症、抑うつ、自傷行為、摂食障害、いじめ、暴力、自殺などを引き起こすことがある。

人間は激しい痛みを感じると、自分の感覚を鈍らせて自己防衛を図る性質がある(Brown, Brené. Braving the wilderness: The quest for true belonging and the courage to stand alone. Random House, 2017.)。それはまるで、痛みに耐えきれず、自分自身に打つ麻酔のようなものだ。

「麻酔」は多岐にわたる。過剰な飲酒、喫煙、ギャンブル、薬物、ワーカホリック、セックスやポルノの依存症などのわかりやすいもの *注10 だけではない。宗教、ユタ(沖縄のシャーマン)、セミナー、政治、スポーツなどの熱狂も麻酔になりうる。「アンパン」や「メロンパン」に象徴される、「わかりやすさ」も感覚を麻痺させる。現状維持や、問題から目を背けるために使われる、「なんくるないさ」という麻酔もある。本来の意味は、マクトゥソーケーナンクルナイサ(人事を尽くして天命を待つ)だが、いつからか、「何もしなくてもOK」という意味で使われるようになっている

*注10 ちなみに、「麻酔」と「楽しみ」の違いは微妙である。ひとかけらのチョコレートの美味しさを、甘い宝石のように堪能することは本物の癒やしだが、板チョコ一枚をまるごと、味も感じないでやけ食いすることは、麻酔の疑いがある。30分のチャットで元気が出ることもあれば、苛立ちを紛らわせるためにチャットに逃げ込むこともある。問題は、何をするかではなく、なぜするかであろう。この微妙な違いを理解するためには、自分の行動の背後にどのような思いがあるのか、自分自身を見つめる必要がある。

ところが、人間の感覚は、選択的に鈍らせることができない。麻酔は痛みを和らげるが、同時に他のあらゆる感覚を麻痺させてしまう。愛、喜び、感動、共感、直感……すべてだ。問題から目をそらせば痛みは減じるかもしれないが、人生の豊かさから遠ざかることになる。

強い麻酔を打っている人の特徴は、他人にNOと言えないこと

強い麻酔を打っている人の特徴は、他人にNOと言えないことである。人から誘われたら無理をしてでも顔を出すタイプは、自分を生きられず、強い麻酔を必要とするようになる。行きたくない誘いに応じるときには、麻酔を打てば良い。感覚が鈍って、嫌な誘いだということが気にならなくなる。だから、表面上は、嫌な顔一つせず誘いに応じているように見える。

逆に、麻酔状態が軽微な人たちは、心が躍らない相手からの誘いは、丁寧に、しかし思い切って、できるだけ早く断るタイプだ。彼らは、先伸ばししてその間思いわずらう必要はないと考え、それで人間関係が変わっても仕方がないと覚悟している。


Photo by Dr. Partha Sarathi Sahana (CC BY 2.0

豊かなつながりのある人生を送ることは、不要な人間関係に境界線を引くことである

NOと言うためには、自分を知らなければならない。「私はこれでいい」という確信がなければ、「これ以上いらない」と言えないからだ。自尊心の高い人は、人とのつながりを感じていて、孤独感が少ない。だから、胸を張って人にNOと言える。豊かなつながりのある人生を送ることは、不要な人間関係に境界線を引くことである。自分の居場所を作るために他人の価値観に沿って駆けずり回る時間とエネルギーを減らし、本当に重要な人とのつながりを豊かにすることだ。勇気を持って境界線を引くには、傷つく可能性を受け入れなければならない。

麻酔を打った人たち

そう考えると、確かに麻酔を打ったような鈍さで暮らしている人が、沖縄社会には多くないだろうか? 「控え目な」ウチナーンチュの姿もずいぶん違って見えてくる。逆説的に聞こえると思うが、麻酔という観点で社会を見ると、根深い社会問題をより「前向き」に捉えることができると思う。

情熱と創造性を失っているように見える従業員も、価値あるものを見て見ぬフリを続ける経営者たちも、無批判に同じ行動を繰り返す消費者も、人間性や才能の問題ではなく、苦しみを和らげるための麻酔が原因だとしたらどうだろう。

――待ち合わせをすっぽかされても怒らない、友だちに貸したお金が戻ってこなくても催促もしない、ATMの順番待ちの列に人が割り込んでも声を上げずにただ見ている、危ない運転車に迷惑してもクラクションを鳴らさない――生活に余裕がない中で昇進を辞退する、スローモーションのように働くコンビニの店員、マニュアルにない対応を強いられると無反応になるショップ店員、良し悪しに関わらず同じ商品を買い続ける――新しいもの、良質なもの、個性的なものに無感覚でいる、自分の着たいもの食べたいものを諦める――長年最低時給で働かせている従業員に「感謝」する経営者――本土で自分を試したいが、家族のために「沖縄に残りたい」と口にする長男――何十年も毎月同じ会話を楽しむ学生時代の友人――。

大学の現場も同様だ。

――薄暗い教室で電気を点けずに授業を待つ学生たち、質問の手がまったく上がらない教室、課題に取り組む前から諦めて教科書を購入すらしない、課題がことごとく未提出でありながら不可になったことが不満な学生、質問をしてもただ無反応な学生、人の目を見て20秒間会話することに耐えられない学生――。

学力が不足している大学生も、知能ややる気や人格の問題というよりも、心の痛みを和らげるための麻酔が原因になっているとしたら、教育現場で子どもたちに働きかけるべきことの優先順位は、まったく変わってこないだろうか。

言葉と自尊心

ウチナーンチュが言語に対して感じている劣等感の問題は、とてもセンシティブなテーマである。言語能力は「知性のものさし」と解釈されてしまうことが多いから、言語に対する苦手意識は、自尊心を毀損する大きな原因になり得る。

2013年12月27日、当時の仲井真弘多知事が辺野古の埋め立て申請を承認した。承認は「県外移設」公約の事実上の撤回だとして、記者団は仲井真知事に激しく詰め寄った。そのとき、記者の質問に対して、仲井真知事の琴線に触れたのは、政治でも経済でもなく、「言語」だった *注11

*注11 佐藤優ブログ「なぜ仲井真知事は記者会見で激昂したのか?」ハフィントンポスト日本版、2013年12月29日。

本土出身のテレビ記者が激しい口調で質問した。

「仲井真さんは、日本国民としての日本語能力を、常識的な日本語能力をお持ちの方だと思うからお聞きするのだが、公有水面の埋め立ての申請があった場所は県内か、県外か」

さらに

「県内に埋め立てをして、そこに移設をしようという、その承認を求めるところに今日公印を押されているんですね。交付されたということは、辺野古に、つまり県内移設を認めるということに同意されたというふうに、普通の一般的な日本語の能力を持っている県民の方が理解するというのは当たり前のことだと思いますよ」

と、本土出身の記者が、仲井真知事と沖縄県民の「日本語能力」を問題にした。そのとき仲井真氏が激昂し、

「私もあなた同様に、日本語はあんた並みには持っているつもりですが、何ですか」

と怒鳴った。

佐藤優氏は彼のブログ「なぜ仲井真知事は記者会見で激昂したのか?」で、「この瞬間の仲井真氏の、反射的な憤りの意味をどれだけの日本人記者が理解できたであろうか」と述べている。

沖縄では周知のことだが、仲井真さんは際立った論客で、議論好きで、舌鋒鋭く人を批判することも厭わなかった。およそ「控え目」なウチナーンチュのイメージには重ならない。その仲井真さんが言語に対してこれだけ敏感であるということが、ウチナーンチュの言語に対する傷の深さを物語っているようだ。

沖縄社会では、自分の意見を口にするよりも、他人の気持ちにとことん配慮する必要がある。むしろ、自分の意見はないくらいの方が、人間関係がうまくいく。これも私の印象だが、沖縄では地位の高い人や、エリートと言える立場にいる人との会話で、議論が成り立たないことが多々ある。方言という意味ではない。純粋に発声が聞き取れないことも多いが、周りの人が聞き返すこともしない。後で周囲に会話の真意を訪ねて見ると、誰も発言を理解していない。あるいは、流暢に議論をしているようでいて、よくよく論理をたどって見ると、内容はばらばらでほとんど意味あることをしゃべっていないことがある。それでも、周囲の人たちは納得したような顔つきで、「対話」を続ける。

沖縄社会における言語は、「私はあなたの敵ではない」というメッセージを伝えるためのもの

沖縄社会における言語は、新しい情報を伝えたり、相違点を明らかにしたりすることを第一の目的にしているというよりも、「私はあなたの敵ではない」というメッセージを伝えるためのもの、という印象を受ける。自分の好意を相手に伝えるためであれば、延々と続く論旨の空回りは、長ければ長いほど効果的だということになる。だから、本土的な視点でウチナーンチュに「議論」を求めることは、ルール違反だし、「クラクションを鳴らす」意味合いを持つ。

議論を目的にしていないから、感情のやりとりとしての言語は発達するが、論理のやりとりという機能は退化する、というよりも、退化しなければ人間関係がうまくいかない。このために、本土に出たウチナーンチュはコミュニケーションで苦労することが多く、また、自尊心を傷つけられてしまうことが多い

数年前に、沖縄の基地問題を巡って、移設反対派のウチナーンチュと本土論客がパネルディスカッションをしたことがあった。ウチナーンチュはインテリで、沖縄では論客として通っている人物だったが、本土識者の「腹を割った話し合い」に、数時間もの間、事実上無反応だったという「事件」があった。

本土出身者は、「沖縄を理解するため」に、誠実さの証しとして「腹を割ったオープンな議論」を持ちかけるが、ウチナーンチュ視点では、「腹を割った議論」の場に引き出されること自体が、相手に対して配慮を欠く、失礼な、そして、ウチナーンチュへの無理解の何よりの証左だということになる。

日本の問題

……以上「沖縄の社会問題」という前提で議論してきたが、そのほとんどすべての議論は、実は、多かれ少なかれ日本社会全体に当てはまる。

例えば、同調圧力があるのは沖縄だけではない。本土社会にもひどい圧力は存在する。有能な人間の個性を潰して、組織の枠にはめ込むことが社員教育と呼ばれ、企業の価値観にはまりやすい人材を学校が選別・教育する。海外で学んで帰国した「異物」たちは、社内に居場所を見つけられずに退職する。

沖縄と本土社会の関係は、そのまま日本と海外との関係に類似している。本土視点での「沖縄問題」の数々は、海外から見たときの「日本問題」そのものである。

例えば、自尊心だ。1万7000人を対象に心理学者デヴィッド・シュミットジュリ・アリークが2005年に実施した自尊心に関する世界調査では、日本は53の調査対象国中、「圧倒的な」最下位なのだ。この傾向は、「ドクター・ハピネス」として知られる、イリノイ大学のエド・ディーナー博士らの研究結果でも確認されている *注12

*注12 シュミットとジュリークの論文は、Simultaneous administration of the Rosenberg Self-Esteem Scale in 53 nations: exploring the universal and culture-specific features of global self-esteem. Journal of Personality and Social Psychology, 89(4), 623–642. doi:10.1037/0022-3514.89.4.623)。ディーナーらの論文は、Diener, E., & Diener, M. (1995). Cross-cultural correlates of life satisfaction and self-esteem. Journal of Personality and Social Psychology, 68(4), 653–663. doi:10.1037/0022-3514.68.4.653 を参照した。

生活満足度のデータは、OECD Better Life Index 2017参照。

自殺率、飲酒に関するデータは、"OECD Factbook 2015-2016 Economic, Environmental and Social Statistics" OECD, 2016: 207, 211参照。

そして、おそらくその結果として、日本人の幸福度はそれほど高くない。OECDが発表した、2017年版の生活満足度(Life Satisfaction)ランキングで、日本は加盟38カ国中29番目(下から10番目)である。

低い自尊心は、低い幸福度、自殺、飲酒などの依存症と強い相関性があると述べたが、実際、日本社会ではそれらの症状がことごとく表面化しているように見える。日本の自殺率の高さはよく知られているが、OECDのデータでは、韓国、ロシア、ハンガリーに次いで第4位だ。日本人のアルコールの消費量はそれほど多くない(38カ国中30位)が、飲酒量上位20%の消費シェアは約70%で、ハンガリー、アメリカに次いで第3位であり、激しくアルコールに依存する人たちの存在が示唆される。

クラブと自尊心

日本人男性の自尊心の低さは、クラブ、キャバクラなどの業態を支える、大きな要因であるように思う。若くて美しい女性と「会話」するために、男性が通う夜の社交場は、日本と一部のアジアの地域で奇妙に盛んだ。料金は店の格によっても大きく異なるが、日本の「高級」クラブであれば、一人5万円〜というイメージだろうか。その文化を知らない欧米人は、なぜ、女性と会話するだけのことに、あれほど高額のお金を支払うのかと、理解に苦しむ。

ホステスの気遣いは、自分が「立派な男だ」と思わせてくれる。もちろんそれは幻想なのだが、日本人男性は、ひとときの自尊心を味わうために多額のお金を喜んで支払う。逆に考えると、あれほど多額のお金を払わなければ、女性と会話する勇気を持てない、自尊心の低い日本人男性が多数存在するという意味ではないか?

国全体が自尊心の低い男性たちによって運営されている

そして、彼らの多くは、社会的地位が高く、社会的な権力を持った人たちだ。それはすなわち、国全体が自尊心の低い男性たちによって運営されているということでもある。

――私たちは頻繁に、経済問題、政治問題――などを議論するが、それらは、本当に経済問題、政治問題なのだろうか? 自尊心の低いリーダーが引き起こしている、人災に近い現象ということではないのだろうか?

ちなみに、人口当たりのキャバクラ店舗数は沖縄県が日本一だというデータがある。沖縄が日本有数の観光地だということを差し引いても、自尊心の低さとこの業態の盛り上がりには、関連があるのではないか。

男と女と自尊心

日本人男性の自尊心の低さは、男女関係、ひいては婚姻と出産と貧困にも影響を及ぼしている。私の実感として、日本人男性は自分よりも能力の劣る女性を好む傾向が強い。

意見をはっきり口にする女性は「生意気」「女らしくない」として敬遠され、高学歴の女性は結婚できずに苦しんでいる。日本のドラマやアニメなどで典型的に描写される恋愛対象は「可愛いくて、不器用で、男が助けてあげると喜ぶ、若い、女の子」である。女性はそれを知っているから、バカなフリをして男性のエゴを傷つけないことが、結婚への近道だと思っている。女性が男性を甘やかせば、自尊心の低い男性はさらに打たれ弱くなる。

自尊心の低い男性にとって、高収入女性は脅威だ。男性の未婚率は収入と逆比例するのだが、女性は年収が高くなるほど結婚しにくくなる傾向が物語る。

女性が登用されて、社会的地位が向上し、収入が高くなると、自尊心の低い日本人男性から敬遠されて、結婚、出産、家庭が遠ざかる。女性の社会進出が進まないのは、女性自身が登用を望まないという面があるが、その根本原因は男性の自尊心の低さにあるのではないか。これまでに実施されてきた女性登用の働きかけが、思うように奏功していない理由がここにあるのだとしたら、私たちは社会問題とその解決方法に関する視点を大きく変えなければならないだろう。


Photo by Kecko (CC BY 2.0

沖縄は日本の鏡である

沖縄社会は日本でもっとも自尊心の低い地域かもしれない。しかし、そもそも日本人が世界でもっとも自尊心が低いのだ。私は、沖縄社会を掘り下げるまで、このことをすっかり忘れていた。

沖縄の祖先崇拝・年長者尊重や日本のタテ社会は、社会を固定化するには都合が良いのだが、若者の新しい挑戦に対して不寛容で、成功することよりも失敗しないことを優先し、自分を生きるよりも社会の枠組みを、創造よりも前例を優先するような社会風土を生み出す。沖縄社会での生きにくさに、ウチナーンチュが苦しむ姿を知るにつけ、どちらかと言えば常に社会から浮いた存在だった私が、日本社会に感じてきた「生きにくさ」の感覚を思い出したのだ。

水槽で泳いでいる魚に水のことを尋ねても、魚は自分が何を聞かれているのかすら理解できない。魚にとって水の存在が当たり前すぎるのだ。日本社会を理解することもこれと似ていて、水槽(日本社会)の中でどれほど問題を分析しても、真に有効な解決方法にはたどり着かない。そのとき役に立つのが異質なもの(人)とぶつかることである。


Photo by Hiroyuki Naito (CC BY 2.0

背の高い人は、背の低い人と並ぶから自分の身長を自覚できる。大胆な人に接するから自分の控え目さに気がつく。異質なものに接するから、自分を理解しやすくなる。

日本の中でもっとも文化的に異質な沖縄社会は、日本社会を映す鏡になり得る

日本の中でもっとも文化的に異質な沖縄社会は、日本社会を映す鏡になり得る。沖縄の問題を深く掘り下げると、日本社会の本質が見えてくる。沖縄は社会問題の宝庫だが、深刻な状態であるがために逆に根本原因を見つけやすい。そして、問題が根深いからこそ本質的な解決方法を見出しやすい。東京で機能する解決方法が、沖縄で機能するという保証はまったくないが、沖縄の深い問題を解消する「ボタン」を見つけることができれば、日本全体の問題解決につながる可能性がある。それはすなわち、本土が解決できない本土の問題を、沖縄発でこそ解決できるという意味だ。日本社会全体にとってもこれほど価値のあることはない。

誰に投票する?

私たちが社会をより良いものにしたいと真剣に望むのであれば、自尊心の高いリーダーを選出するべきだ

最後に、以上の議論を踏まえて、来る沖縄知事選挙でどの候補に投票することが、社会的、心理的、経済的、政治的に合理性が高いかについて私見を述べたい。私の結論と確信は、私たちが社会をより良いものにしたいと真剣に望むのであれば、自尊心の高いリーダーを選出するべきだということだ。沖縄の政治、経済、社会問題に対して、真に自尊心の高いリーダーがどのような政策を実現するかを想像すると次のようになるだろう。

自尊心の高いリーダーとは、カッコいい人物ではなく、むしろどれだけカッコ悪くても、どれだけ票を失うことになっても、どれだけ損なことに見えても、一人の人間として、そして人のお役に立つために、勇気と覚悟を持って行動する人物である。

例えば、公明党の票を失ったとしても、米軍普天間飛行場を辺野古に移設する方針を支持していることを(カッコ悪くも)正直に認め、県民の理解を問うことである。

例えば、長年にわたって巨額の補助金を投下してもなお、貧困問題をはじめとする社会構造の矛盾を解消できないばかりか、その原因を特定できていないことを(カッコ悪くも)正直に認め、本当の解決法を見つけるために、党派や主義主張を超えて、あらゆる人の力を借りて分析することである。

例えば、辺野古基地建設反対の方針が、浦添新軍港移設推進の立場と完全に矛盾していることを認め、その理由を(カッコ悪くも)正直に説明し、県民の理解を問うことである。

例えば、辺野古基地建設に強く反対する行為が、宜野湾市から普天間飛行場を除去することを少なくとも数十年先延ばしにするであろうこと、普天間飛行場を除去する方法にまったく目処が立たないことを、特に宜野湾市民に対して(カッコ悪くも)正直に認め、それでも沖縄は基地開発に反対するべきであることを県民に問うことである。

保守であれ革新であれ、真に自尊心の高いリーダーとは、例えば、このような政策を決断する人物である。その人物は、真に誠実な生き方のために、真に良き社会のために、カッコ悪い自分をさらし、その自分の姿に胸を張りながら、孤高に生きる真の勇者である。そんな人物に投じる一票は、沖縄社会を確実に豊かに、幸せに、価値あるものに変えていくだろう。

もちろんそんな生き方ゆえに落選するかもしれない。しかし、考えてみれば不思議ではないか。選挙のたびに必ず誰かが落選するはずなのに、私たちは、自尊心の高い落選者を目にすることがほとんどない

――沖縄社会は、そして日本社会は、個性豊かな自尊心の高い人物を、長年にわたって潰し続けてきた。そのために、現代日本は危機的な人材不足に陥っている。無投票という投票行為がベストの選択だと(無意識に)考えている人は少なくない。

【沖縄県知事選】2014年沖縄県知事選挙と2013年浦添市長選挙の類似性について(樋口耕太郎)|ポリタス 「沖縄県知事選2014」から考える

「変われない沖縄」が生まれ変わるために(樋口耕太郎)|ポリタス 沖縄・辺野古――わたしたちと米軍基地問題

著者プロフィール

樋口耕太郎
ひぐち・こうたろう

トリニティ株式会社代表取締役社長/沖縄大学人文学部准教授

1965年生まれ、岩手県盛岡市出身。1989年筑波大学比較文化学類卒、野村証券入社。1993年米国野村証券。1997年ニューヨーク大学経営学修士課程修了。約8年間のウォール街での勤務後、共同経営した金融ベンチャー(JASDAQ上場)を業界最大手(当時)に導くなど、 日本と米国の金融・商業不動産事業で大成功を収める。14年前に沖縄でリゾートホテルを取得・再生したことをきっかけに価値観を大きく転換。次世代の社会と経済を、人間中心・愛の経営で再生する経営受託会社トリニティ設立、代表取締役社長(現任)。以来、人と事業と地域の再生がライフワーク。南西航空の復活を目指して12年になる。 2012年沖縄大学人文学部国際コミュニケーション学科准教授(現任)。南西航空の再生をテーマにした「沖縄航空論」、人と社会の幸せを考える「幸福論」など担当。2018年人間中心の福祉と経営を学ぶ『命の学校』を沖縄県社会福祉事業団と共同で開校し学長に就任(現任)。 沖縄社会・経済・教育・福祉・貧困を統合的に分析した論考「沖縄から貧困がなくならない本当の理由」(沖縄タイムス電子版「樋口耕太郎のオキナワ・ニューメディア」で連載中)は、県内外で100万人以上に読まれる「隠れたミリオンセラー」である。沖縄経済同友会常任幹事(2009年度~現任)。沖縄に移住して14年。

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