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  • Photo by SteFou!(CC BY 2.0)

沖縄の怒りを甘くみてはいけない

  • 田原総一朗 (ジャーナリスト)
  • 2015年6月28日

2015年5月29日の深夜、沖縄から朝生をやった。テーマは沖縄の米軍普天間基地の辺野古移設問題。2012年の本土復帰から40年目のときも沖縄から放送したが、沖縄では盛り上がるのに本土では視聴率は振るわなかった。去年の沖縄県知事選のときにも書いたけれど、それは僕の番組だけじゃない。どこの局も、大体沖縄のことをやると視聴率が上がらないのだ。ひどい話だが、つまり本土の人間は沖縄に興味がないのだ。だからこそ沖縄をテーマに議論し、沖縄のスタジオから放送することに意味があると思った。

放送前は、僕は沖縄の人がもっと本土はなんだ、政府はなんだとボロクソに言うのではないかと思っていた。鬱積していた怒りが激しい批判となり、収集がつかなくなるのではと予想していた。しかし実際に議論が始まるとそうならなかった。難しさを感じているうちに、パネリストの樋口耕太郎さんが、こう言った。

「沖縄の街は静かでしょう。それは車がめったにクラクションを鳴らさないからです。前の車が乱暴運転をしていたとき、他の街ではクラクションを鳴らすことがありますよね。しかし沖縄では、乱暴運転をした運転手よりも、鳴らした運転手のほうがとがめられる。はっきりと口に出して言われるわけではないが、とがめる顔つきをされる。実質的に、物事に対して声を上げた人間の方が、問題を起こした人間よりも社会的な圧力がかかる――沖縄とは、そういうところです」


Photo by 初沢亜利

番組では、パネリスト10人のうち4人が沖縄出身の政治家やジャーナリストで、客席にも大勢の沖縄の方に集まってもらっていた。にもかかわらず、政府批判の声はそこまで募らなかった。クラクションを鳴らさないのと同じで、政府に対する憤りを強く表現することはないのだ。

しかしそれは、沖縄の人が怒っていないということではない。本当はもっと怒っている。

沖縄について考えるとき、僕ら本土の人間はどうしても贖罪意識のようなものを抱かざるを得ない。太平洋戦争末期、沖縄は日本国内で唯一住民を巻き込んだ激戦地となり、20万人以上の犠牲者が出た。沖縄県民のじつに4人に1人が命を落としたのだ。そこには日本軍に強制され、集団自決した一般住民も多く含まれる。そして戦争が終わったあと、沖縄は米国に27年間も占領されていた。1972年、ようやく日本に返還されたときに、沖縄の人は基地がなくなること、あるいは減ることを期待していた。だがそうはならなかった。

僕はてっきりそこに沖縄の人の怒りがあるのだと思っていた。しかし、沖縄の人に話を聞くと、沖縄の人の怒りは、それよりはるか以前に存在することがわかった。

沖縄はかつて、琉球王国であった。15世紀初めに尚巴志(しょうはし)王によって統一され、450年もの間続いた王国に、17世紀に入ると薩摩藩が侵攻した。1872年には明治政府が琉球王国を琉球藩とし、1879年にそれを廃止して沖縄県にした。こうして政府が強権的に琉球を近代日本に併合していったのが「琉球処分」で、これによって琉球王国は滅びたのだ。


Photo by 初沢亜利

「処分」に対する怒りが、沖縄の人々の複雑な思いの根源にある

それは、諸藩が県になるのとはまったく違う。もともと独立国だったのが、「処分」によって沖縄県として統合されたのだ。その「処分」に対する怒りが、沖縄の人々の複雑な思いの根源にある。

かつての自民党は、そのことをよくわかっていた。1990年から98年まで沖縄県知事を務めた大田昌秀は革新系だったが、1996年から98年まで首相を務めた橋本龍太郎や野中広務、梶山静六、古賀誠は何度も沖縄に行って話を聞いていた。なかでも一番は野中広務で、彼は橋本内閣、小渕内閣のとき、沖縄の全部の島を訪ね歩いて、地元の人と酒を酌み交わしながらとことん話し合ったという。だが、現政権にはそれがない。


Photo by 柴田大輔

ましてや一連の政府の振る舞いを「新琉球処分」だと感じる沖縄の人々さえいる。合法であるから「粛々と」工事を進めるというのは、言い分としてはあり得る。だが、人には感情があるのだ。

辺野古移設案はもうまったく展望がない

僕は、辺野古移設案はもうまったく展望がないのだろうと踏んでいる。辺野古をめぐり流血の事態が起きる可能性は、翁長雄志が知事になった昨年11月以前よりも高まっていると感じるからだ。ボーリング調査が終わり、いずれ工事が本格化した際には、反対運動をする人々が船に乗って抗議に行き、激しい衝突に発展した結果、いずれかの船が沈み誰かが亡くなる——そうした最悪の事態が起きれば、新基地建設計画自体が水泡に帰す。もちろんそんな不幸な出来事は起こらない方がいいに決まっているが……。

1970年12月、米国占領下のコザ市(現沖縄市)で米軍人が住民をはねたことをきっかけに米軍車両や基地施設の焼き討ち事件が発生した。「コザ暴動」である。ベトナム派兵で沸いていた当時、年間の外国人犯罪は約1000件、交通事故は約3000件にも及んだが、加害者が無罪または軽罰となってしまう状況に人々の不満が高まっていた。暴動を政治的に指揮した者はいなかったにもかかわらず、暴徒と化した群衆は2000人とも4000人ともいわれ、武装した米軍によって威嚇発砲と、手投げ催涙ガス弾が使用されるに至った。

政府は沖縄の怒りを甘くみてはいけない。

野中広務は、何度も沖縄の人と膝をつき合わせて話すことで、一度は辺野古移設の合意を取りつけた。現政権はかつての自民党のやり方をぜひ見習ってほしい。

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著者プロフィール

田原総一朗
たはら・そういちろう

ジャーナリスト

1934年、滋賀県生まれ。1960年、岩波映画製作所入社、1964年、東京12チャンネル(現テレビ東京)に開局とともに入社。1977年にフリーに。テレビ朝日系『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。1998年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ城戸又一賞を受賞。 現在、早稲田大学特命教授として大学院で講義をするほか、「大隈塾」塾頭も務める。『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)、『激論!クロスファイア』(BS朝日)の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数。また、『日本の戦争』(小学館)、『塀の上を走れ 田原総一朗自伝』講談社)、『誰もが書かなかった日本の戦争』(ポプラ社)、『田原総一朗責任 編集 「殺しあう」世界の読み方』(アスコム)、『おじいちゃんが孫に語る戦争』(講談社)など、多数の著書がある。

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