震災後間もない2011年6月、津波被災地の内発的な復興を考えるヒントとして、或る学者の書が復刊された。山口弥一郎著『津浪と村』である。山口は田中館秀三に地理学を、柳田国男に民俗学を学び、98年の生涯を学問に捧げた巨人だ。
山口は明治35年(1902年)、福島県大沼郡新鶴村(現会津美里町)に生まれ。24歳、福島県立磐城高等女学校で教壇に立つと、常磐炭田の炭鉱集落の調査を開始。中国、韓国、沖縄、台湾へと研究範囲を広げ、やがてその土地に受け継がれて来た生活、風俗、習慣に関心を持つようになると、民俗学的なアプローチも貪欲に取り入れた。炭鉱民俗誌に発表した論文が柳田国男の目に留まる。
昭和8年(1933年)、昭和三陸地震による大津波が発生。山口は昭和10年(1935年)冬から三陸沿岸の集落を歩き始める。明治29年(1896年)の明治三陸地震による大津波と合わせ、被害と再興の状況をつぶさに見聞した。この調査は昭和17年(1942年)夏まで断続的に行われ、驚くべきことに宮城県の牡鹿半島から青森県の八戸までを踏破。実に詳細な聞き取りを実施しており、その業績は他の追随を許さない。
Photo by 岩本室佳
山口の研究は「なぜ一旦移転した集落が原地(元の場所)に戻ってしまうのか」というテーマに行き着く。集団移転せず分散移転ではやがて戻る。移住者が原地域に住みつき活況を呈してくるとやはり戻る。そればかりではない。ひとたび豊漁に沸けば、それだけでも人々は原地に戻ってしまう。主因は経済的問題として語られるが、果たしてそれのみであろうかと山口は考えた。
「元屋敷とか、氏神とか、海に対するなどの民俗学的問題でも含んでいるとすれば、これは到底津浪直後の官庁の報告書にのみゆだねておくわけにはいかない。」(山口弥一郎著『津浪と村』序に代えて)
「村が大地に住みつく根強さを思い知らされる思いであった。唐丹村本郷など墓地は勿論、村の氏神・屋敷神・路傍の石仏まで皆移転させても、老婆は古屋敷に立寄って思いにふけっていた。」(山口弥一郎著『東北地方研究の意味』)
『津浪と村』には、磐城での民俗学の友、和田文夫による調査報告「両石の漁村の生活」が挿入されている。この部分は全く一般的な民俗誌の記述であり、前後のテキストからは乖離しているものの、山口の問題意識を示す、最も重要な部分であろう。なぜ人は原地に戻るのか、その問いに最も遠くから答えようとする一つの試みである。
山口の調査でもう一つ興味深いのは、第三篇「家の再興」だ。家族全員が流されても、集落はその家を断絶させない。その行為の実態に迫る章である。
家を継ぐ中心となる人物は、その多くが何がしかの縁故者であるが、全くの他人が継ぐこともある。土地や屋敷の相続、義援金の獲得権や漁業権など、経済的な問題も大いにあるとしているが、山口はいわゆる祖霊信仰との関連性を指摘している。
石井正己編『震災と語り』には、川島秀一による或る女性の聞き書きが掲載されている。彼女は、昭和8年の津波で自分以外の家族全員が流された。
「三年生だから、四年生さ上がる三月の三日だから、花露辺(けろべ)さ用あって、夕方、泊まりさ行ってす、そして、こっ(唐丹本郷)から花露辺でも、子どもだからすぐ帰ってきられねからす、泊まって、その晩、流れたの。全部流れて、オレばり残ったの。ホトケマブリに置かれたわけだ。」(石井正己編『震災と語り』講演「津浪と伝承」川島秀一)
ホトケマブリとは供養のことだ。
そもそも本来の仏教には祖霊崇拝がない。しかしこの列島に広がるにはどうしてもそれを取り込む必要があった。この祖霊に対する執念、家に対する執念、村というものに対する執念は、現在の問題としても十分考察に値する。
長寿を保った山口は平成12年(2000年)、98歳で亡くなった。死後寄贈された資料の中に、阪神・淡路大震災の新聞記事を貼り付けたスクラップブックが残されている。傍らには以下の言葉が書き添えられてあった。
神戸海岸・横浜海岸には勿論原子力発電所はない
然し日本の原子力発電所は海岸に分布し海底地震の真正面にある
これは今までのリアス湾頭の災害と全く様態の異なる被害を及ぼすであろう
そのメカニズムを研究した人は未だ世界中に見当らない
日本の海岸線には多くの原子力発電所がある。津波は、その記録を計算すれば、「常習」とされる三陸より、実は東海や南海のほうが頻度が高い。
放射能汚染という災害の中、人は自らを、家を、そして村を、どのように再興していくのだろうか。これはこれまで誰一人取り組んだことのないテーマであり、当然ではあるが、私たちは十分に資料を採集しておかなければならない。
Photo by 江尻浩二郎
私は地元いわき市小名浜にある復興公営住宅「下神白(しもかじろ)団地」で、或るプロジェクトに関わっている。復興公営住宅とは、原発事故による避難者のための県営住宅で、具体的に云うと福島県双葉郡富岡町、大熊町、双葉町、浪江町の4町の方々が暮らしている。
当初は「終の住処」と呼ばれたこの団地も、入居から早3年。その状況は予想以上に大きく変化してきた。決して戻らないと強く言っていた方々も、現地の整備や居住規制の解除などで一人また一人と故郷に戻り始めている。
Photo by 江尻浩二郎
あれから8年が経ち、震災に関わる活動もいよいよ地味になるが、仕事に先を競う必要もなく、ほっとしているところもある。
民俗学の祖である柳田国男は、その著書『民間伝承論』の中で、採集資料の分類を試みた。第一に「目に映ずる資料」、第二に「耳に聞こえる言語資料」、そして第三に「最も微妙な心意感覚に訴えて始めて理解できるもの」を挙げており、それぞれ「旅人の学」「寄寓者の学」「同郷人の学」と言い換えている。
第一の分類は「通りすがりの旅人でも採集できる部門」としているが、第二の分類は「土地に或程度まで滞在して、其土地の言語に通じなければ理解出来ない部門」とし、求められるレベルが非常に高い。第三に至っては「所謂俗信なども含まれて居り、是は同郷人同国人でなければ理解の出来ぬ部分で、自分が郷土研究の意義の根本はこゝにあるとして居るところのもの」としている。東北にある我々は、今後もたゆまず第三の資料を採集していかねばならない。
災害があれば当然悲話がある。その類の報告は多く、受け入れられやすいが、自戒をこめて次の言葉を挙げておく。
「我々は津浪直後に、惨害記録と哀話のみ綴っているべきではない。暗い話でなく、根強く再興してゆく日本人の力をこそ、次には被害を少しでも軽減するために、細心の注意を怠らぬように導いてゆくのが我々のなすべきことと信じている。」(山口弥一郎著『津浪と村』)
「大体に於て、話になるやうな話だけが、繰返されて濃厚に語り伝へられ、不立文字の記録は年々に其冊数を減じつゝあるかと思はれる。此点は五十年前の維新史も同じである。」(柳田国男著『雪国の春』二十五箇年後)
不立文字(ふりゅうもんじ)とは禅宗用語で、言葉や文字ではなく、体験や心で伝える方法のことである。
「五十年前の維新史」という言葉が出た。東北の多くの地域は、戊辰の役による荒廃を経験している。そして度重なる飢饉を生き抜いている。沿岸地域はその上での津波被害であることを忘れてはならない。
安政5年(1858年)、相馬藩小高郷(現南相馬市小高区)に生まれた実業家である半谷清寿は、その著『将来之東北』の冒頭で維新後の東北について次のように語っている。
「近く四十年間我東北の歴史は、何ぞ其の惨絶悽絶なる。嗚呼、是れ天か人か。看よ、磐梯の噴裂、三陸の海嘯、三県の凶飢、何ぞ其の悲惨なる。更に遡りて戊辰の役に於ける創痍亦何ぞ深痛なる。斯くの如くにして東北は不振より衰退に入り。衰退より滅亡に赴かんとしつゝありしものなり。」(半谷清寿著『将来之東北』)
同書は当時衆議院議員であった半谷が、東北の産業振興のビジョンを示したものであるが、半谷の求めに応じて、かの内村鑑三が「序」を寄せている。「人は肉と霊とである」で始まる本文は、よっぽど腹に据えかねることがあったのか、目の覚めるような檄文だ。ここにその一部分を記してこの記事を終えたい。
東北の特産物は、意志でなければならない。霊魂でなければならない。
「人は、肉と霊とである。肉ばかりではない。また霊である。霊ばかりではない。また肉である。ゆえに彼を完全に救いたいと思うのであれば、彼の霊肉両方を救わなければならない。(中略)東北には、地から産する物のほかに、何かほかに産物がなくてはならない。そうしてその産物は、決して肉に属するものではない。(中略)私が信じるところによれば、東北の特産物は、意志でなければならない。霊魂でなければならない。すなわち、地より得るところが薄いから、天より得るところが厚くなければならない。そうして、これは決して空想ではない。世界いずれの国においても、我が東北のような地位と境遇とに置かれた国にとっては、霊によって肉に勝つ以外、勝を制する道はないのである。」
参考文献・資料
石井正己・川島秀一編、山口弥一郎著『津浪と村』三弥井書店、2011、初出1943
石井正己編『震災と語り』三弥井書店、2012
柳田国男著『柳田國男全集第三巻』筑摩書房、1997
柳田国男著『柳田國男全集第八巻』筑摩書房、1998
岡田俊裕著『日本地理学人物事典【近代編2】』原書房、2013
半谷清寿著『将来之東北』丸山舎書籍部、1906
福島県立博物館ポイント展『会津が生んだ知の巨人・山口弥一郎―災害と民俗』展示資料、2019