東日本大震災から5年が経過する。他方、私たちが2015年の3月11日から福島県の帰還困難区域内でスタートさせた国際美術展「Don’t Follow the Wind」(以下、DFW)は、まだ1年を経たばかりだ。1年も続く展覧会? それで「まだ1年を経たばかり」とは? そのことを理解してもらうためには、この展覧会について、少しばかり入り組んだ前置きをしておかなければならない。
まず、この展覧会は「スタート」はしたけれども、「オープン」はしていない。通常の展覧会では、もちろん両者は一致している。会期が幕開けした展覧会の会場まで足を運べば、チケットを買うなりして、当然、入場することができるはずだ。スタートしたけれども、オープンしていない展覧会など、普通はありえない。けれども、大震災と原発事故といった緊急事態下では、この「通常」とか「普通」というのが、極めて疑わしくなる。
震災前の「通常」とか「普通」が原発事故後当たり前の意味を失ってしまった
東京電力福島第一原子力発電所の過酷事故による放射性物質の大規模拡散によって、私たちは、日本国内に「帰還困難区域」と呼ばれる異例の地域区分を持ってしまった。帰還困難区域とは、事故から5年が経過しても、年間を通じての被曝線量が高すぎるため、もと住んでいた住民の方々が生活を再開することができない避難地域のうち、特別な許可を取らないと中に入ることができない一帯を指す。バリケードで封鎖されたその範囲は、福島県浜通りのうち、双葉郡を中心に7市町村にわたっている。震災前の「通常」とか「普通」が原発事故後、当たり前の意味を失ってしまった、極めて具体的な事例だと言えるだろう。
Photo by 岩本室佳
にもかかわらず、帰還困難区域は、ときたまそう形容されるような意味では、「死の街」ではない。たしかに、すべての住民の方々の生活の営みが突如として中断され、あらゆる事業が停止したままのその内部の風景は、時の経過とともに朽ちるに任され、まるで、あの日からいっさいの時間が止まってしまったかのようだ。けれども、だからといって、この区域に土地や家、事業所を持っている方々の住民台帳や事業登録までもが霧散してしまったわけではないし、地権を始めとする様々な権利が完全に失効してしまったわけでもない。今なお全体で2万5000人近い人口を抱え、宙に浮いてしまったとはいえ、9200世帯もの生活の権利が担保されたままなのである。言い換えると、帰還困難区域とは、そこに住むことの権利は依然として有効であるにもかかわらず、現実にそれを享受することが困難な地域区分ということになる。
Photo by 岩本室佳
この区域の内側で私たちがスタートさせた展覧会=DFWの、会期中であるにもかかわらず、いまだオープンできていないという特殊な事情も、帰還困難区域における、この権利と享受の分離に沿うものである。具体的には、DFWの会期そのものは1年前にスタートしているけれども、一般の人が実際に見に行こうとしても、帰還困難区域への立ち入りを制限するバリケードに阻まれて、作品までたどり着くことができない。展覧会はスタートしたけれども、実際にはオープンしていないというのは、そういう意味なのだ。
過去に前例のないそんな展覧会に私が関わることになったのは、2013年秋のことだった。本企画の発案者で、アーティスト集団「Chim ↑ Pom(チン・ポム)」のリーダー、卯城竜太から声をかけられたことにさかのぼる。結果、私は彼らとともにこの国際美術展の実行委員のひとりに加わることとなり、今日に至っている。だが、それだけではない。本来であれば批評家である私自身が、「グランギニョル未来」(赤城修司、飴屋法水、山川冬樹、私の4名からなる)というアート・ユニットの一員として、この展覧会に作品の提供もしているのである。むろん、アーティスト宣言などするつもりはさらさらない。「通常」も「普通」も通用しないような世界のなかでは、作家と批評家との区分も、はっきりと線引きできるものではない。そのような既成の役割分担にこだわっていたら、こんな未知の事態には、とうてい対応しようがない。事態を傍観して「高み」から分析的にものを言うのでもなく、復興支援やボランティア、チャリティといった「通例」に沿って文化上の協力をするのでもない。未知の領域でなお芸術の可能性を試すためには、帰還困難区域という異例の事態の内部に、みずから決断し、足を踏み入れてみることからしか始まらない。そこでなにを感じ取るか。そのためには、アーティストであることも、批評家であることも未分化であるような、複合的なユニットで臨むしかなかったのである。
Photo by 津田大介
とはいえ、いくら困難でも勝手に思うだけなら簡単なことだ。展覧会である以上、開催できなければ何の意味もない。ところが、帰還困難区域の内部は、公共の施設である美術館や博物館はおろか、行政さえほとんど機能していない特殊な場所である。企画書を作り、第三者に認めてもらい、予算を確保して会場を借り、首尾よく作品を設置して来場者を待つといった、ごくごく真っ当な展覧会のやり方は、いっさい通用しない。現実に域内に作品を設置するための会場を確保する選択肢は、3つに絞られる。ひとつは、帰還困難区域の中に家を持つ方々の理解を得て、その方々が住んでいた家や倉庫などをお借りして設置するやり方。もうひとつは、同じく区域内で何かしらの事業を営んでいた方々の事業所や敷地をお借りして設置するやり方。そして3つめが、帰還困難区域を抱えている自治体から行政上の公的な認可を得て、公共の施設の一角をお借りして展示するやり方だ。
Photo by 津田大介
DFWでは、国内外から12人(組)の美術家が、国内外3人のキュレーターによって選ばれ、今挙げた3つの展示の仕方の道筋を得て、複数の会場にわたり作品を展示している。これを運営するのが、私たち実行委員会の仕事である。このようにすっきり書いてしまうと、いとも簡単に聞こえるかもしれないが、実現までの道のりには、ここでは書くことができないような多くの苦労があった。そのことは、事故から5年が経っても先行きが見えず、一寸先には何が起こるか知りえない今に至るまで、ずっと続いている。しかも、私たちの実行委員会は、完全な自主組織である。どこかから助成金をもらったり、支援のために予算をもらったりしているわけではない。
けれども、同時にDFWを通じて、私たちは僥倖と呼ぶほかない「出会い」と巡り合うことができた。これらの出会いを通じて、通常の美術展では決して得られない対話や発見を重ねることもできた。震災や原発事故がなかったら生まれなかったはずの出会いである以上、手放しで喜ぶことはできない。それでも、これらのすべてが、私たちにとって、震災と原発事故について今後も考え続けるうえで、かけがえのない糧となっている。そのことはまぎれもない事実だ。アートなどという余剰物とはいっさい無縁で暮らしていけたはずの人たちに対し、世界広しといえども、過去にまったく前例がないようなアートの試みに対して、無償で協力してもらえませんか、と働きかけるのである。こんな事態に晒されなければ、そうした無謀な試みはうまくいかなくて当然だろう。けれども、中には、家を失い避難を強いられる苦境に立たされてなお、いや、そういう理不尽な苦境に置かれているからこそ、私たちの話に真剣に耳を傾けて下さり、「協力してもよい」と言っていただけた方々と出会うことができたのだ。
Photo by 岩本室佳
帰還困難区域という異例な事態を通じて、両者の間に、文化とか芸術とかを超えた、通常では起こりえないような「共鳴」が生じた
そんな局面では、アートの高尚さや文化的な意義などといった方便は、まったく役に立たない。また、そんなことを唱えるつもりも毛頭ない。だいいち、荒唐無稽にも聞こえかねないそんなアート・プロジェクトが、地域の復興にとってすぐに資するわけはない。一過性のフェスティヴァル=祭りというのでもない。被災者の心に寄り添うというのとも違っている。そんな試みに、なぜ賛同してもらえたのか。帰還困難区域という異例な事態を通じて、両者の間に、文化とか芸術とかを超えた、通常では起こりえないような「共鳴」が生じたとしか言いようがない。今は、そんなふうにしか説明できない。けれども同時に、この共鳴は、それが「共鳴」であるかぎり、契約によって支えられたものでもなければ、会場を提供して下さる方々が負うべき義務もない。原則として、信頼によってしか支えられていない、かたちのないなにものかである。である以上、なにかのきっかけで突然、失われてしまうかもしれないし、スタートしさえすれば、あとは万事放っておいてもうまくいくというような機械的な代物とは対極にある。そういう無形の危うさの闇中、ほとんど奇跡的に出会えた方々とのつながりや対話を維持していくことも、DFWにとって、欠かすことのできないプロジェクトの条件なのである。
さて、ここで私たち「グランギニョル未来」による出品作についても書いておこう。出品作は、「デミオ福島501」と題された自動車の形状をした作品である。「自動車の形状をした」と書いたのは、厳密には自動車ではないからだ。たしかに、もとはメンバーのひとりが生活に利用していた自家用車であった。けれども今は、車両登録の一時抹消手続きを済ませ、ナンバーは運輸局に返却し、「かつて自動車であったもの」として、ガソリンとエンジン・オイルを抜き、帰還困難区域の「とある場所」で屋内に保管=展示されている。私たちはこの車でメンバー4人と帰還困難区域への立ち入り申請をし、正式に許可を得て乗り入れた。
Photo by 岩本室佳
一時抹消としたのは、いつ訪れるかもわからない「未来」に、もう一度、自動車として「再生」する余地を残したかったからである。車内には、4人のメンバーが持ち寄った、それぞれの生きてきた時間の中でかけがえのない物品を複数、搭載しており、そのひとつひとつが、独立しながらもたがいに共鳴し合い、様々な物語の芽を秘めたまま、長い眠りの時についている。
Photo by 岩本室佳
それにしても、なぜ自動車だったのか。思い当たる節はいくつかある。5年前の3月11日、三陸地方を中心とする太平洋沿岸に大津波が押し寄せた時、現地の様子をそのまま伝える中継のカメラを通じて、私たちの目を最初に驚かせたのは、まるで将棋のコマのように積み重なり、なすすべもなく押し流されていく大量の自動車の様子ではなかったか。車で逃げるのか、車を捨てて自分の足で逃げるのかが、その人の命運を左右したケースも少なくなかろう。そしてあの震災直後、ガソリンを求めてスタンドに並ぶ人々の長蛇の列。わかりきったことではあったはずなのに、自動車は燃料がなければ、ただの鉄の塊にすぎない。私たちの日々の利便性を支え、万能とまで思えた自動車が、そのような局面では、まったく無力であるという現実。その後も、展覧会の準備をする過程で、帰還困難区域で乗り捨てられ、事実上の廃車となった、誰のものとも知れぬ車を、いったい何台見てきたことか。
Photo by 岩本室佳
そういえば、今年に入って東京電力福島第一原子力発電所の構内を見学した時も、ナンバープレートを外されてなお、活用され続ける多くの車を見た。それらは、構内だけで乗られるために独自のナンバリングが施されており、発電所の中から外へと乗り出すことはできない。その車の佇まいが、実に不可思議に見えたのだ。これもまた、震災後の帰還困難区域に現れた、新しいもののあり方なのだろう。
Photo by 岩本室佳
「デミオ福島501」は、震災以後、こうして「もの」が新たに備えることになった、不穏で不確実な記憶をいくえにも塗り重ねられ、目的地も走行距離もわからない、終わりのない旅に出ている。そう言えるのかもしれない。私たちは、その中に封印された物語を、折りを見てひとつひとつ開封し、戯曲や演劇、出版や批評、写真や映像、そしてトークショーやパフォーマンスといった様々なメディアと機会を活用して、帰還困難区域の外へと、少しずつ紹介し続けていくつもりだ。その期間は、DFW全体の、展覧会としての開催期間と公開期間が最終的に一致するまで続く。つまり、現在の「帰還困難区域」が「居住制限区域」となり、一般の人が特別な許可を取ることなく会場までアクセスすることができるようになるまで続くということだ。それまでは、会場の具体的な位置や、作品の詳細についての情報は極力、公開しない。人間に与えられたうち最も省力的な「イメージする」という力の中で、見に行くことができない場所を想像する――目に見えない物語の発露へと姿を借り、断続的に発信され続ける。
Photo by 岩本室佳
だが、想像力による鑑賞に限定される期間がいったいどれくらい続くのかについては、実のところ誰にもわかっていない。帰還困難区域といっても、その放射線量は一律ではなく、すでに開通している国道6号線沿いのように比較的線量が低くなった場所もあれば、ケタ違いに汚染のひどいホットスポットを多く抱えた場所もたくさんある。帰還困難区域が行政区分に沿って一律に解除されるということは考えにくく、おそらくは5年先、10年先、へたをすればもっとはるか先まで線量が下がらず、帰還困難区域のまま残り続けるという事例も起こりえるのだ。私は今54歳だが、そうすると、余命のうちに「解除=展覧会のオープン」に立ち会えない可能性も当然、ありうる。その場合、それ以降の発信を、いったい誰に託するのか。あるいは、反対にもっと早く解除された場合には、「見に行くことができる」美術展として、どのように公開するのか。まだまだ決まっていないことだらけだ。冒頭で、展覧会であるにもかかわらず、「まだ1年が経ったばかりだ」と書いたのは、こうしたことによる。せめて私たちは、その、時の猶予を肯定的に受け入れ、震災から6年目以降という、これからも長く続くであろう時の経過に、何とか対応していけたらと考えている。
Photo by 岩本室佳
付記・DFWはほかに、「ノンビジター・センター」というかたちで、「見に行くことができない」人のための一時的な展示を、不定期で国内外の各所に設けていく予定である。昨年の秋には、その最初の試みを、東京のワタリウム美術館で行った。また、この3月からオーストラリアで開催される国際美術展「シドニー・ビエンナーレ」では、国外での「ノンビジター・センター」を初めて設けるかたちで参加している。DFWの公式ウェブサイトは、dontfollowthewind.info まで。