日本中を揺るがした東日本大震災から5年を迎えます。甚大な被害をもたらした津波や福島第一原発事故によってコミュニティが破壊され、新たなまちづくりを余儀なくされた東北の各地域は今、よりリアルに「町の衰退」の危機に直面しています。
震災によるがれきは2年ほどでほぼすべて片付きました。しかし、肝心の被災自治体の復興計画づくりはなかなか進まず、計画が策定できても実行に移す過程で止まってしまうことも少なくありません。そこには国の方針とのバランス、自治体の制度的硬直化、住民同士の意見対立、リーダーシップの欠如などさまざまな要因が横たわっています。
その一方、特にこの1年、被災地域を取材する中でよく耳にしたのは「ようやく具体的な復興に向けて状況が動き出した」という話でした。多くの地域で土地のかさ上げや防潮堤建設の目処がついたことで、新しい町を象徴する施設の建設が具体化し、住民も「新しい町」をようやく実感として意識できるようになったのだと思います。
Photo by 津田大介
とはいえ、いち早く水産業復活のための多機能水産加工センターや、災害公営住宅を整え、2015年12月には駅前に商業エリア「シーパルピア女川」をオープンさせた宮城県女川町と比べると、ほかの被災自治体の歩みの遅さは気になるところです。女川町と同じく過酷な津波の被害を受けた宮城県南三陸町では、現在2012年にオープンした仮設商店街「南三陸さんさん商店街」をかさ上げした土地に移転本設するための工事が始まっており、2016年末にオープンする予定です。そう、南三陸町と女川町では、同じ位置付けの商業施設のオープンがちょうど1年差がついていることになるわけですね。実をいうと南三陸はまだいいほうで、東京オリンピックによる作業員不足や資材高騰、用地確保の難しさなどから「本設」への移行の見通しが立たない仮設商店街が、被災地域には多く見られます。女川や南三陸のようにようやく「復旧」から「復興」のフェーズに入れた自治体と、いまだ「復旧」段階にある自治体の差は年々開いているとも言えますし、それこそが「震災から5年」で見えてきた厳しい現実なのでしょう。
これまでの支援活動を止めたり、リニューアルする団体も増えてきました。メディアで語られる「復興」は、どうしても派手なインフラ建設や、絵になる人物、耳目を集めるストーリーに注目が行きがちです。しかし、復興の現場には多くの人に惜しまれながらさまざまな事情で支援活動を途中で挫折した人もいれば、誰から注目されるわけでもなく淡々と5年間支援を続けている人もいます。なぜ彼らはやめたのか。あるいは続けているのか。この特集は、復興にかかわる活動に携わってこられた方たちの5年間の足跡やその想いに触れ、とりわけ5年という時の流れのなかで「それでも」続ける/「それでも」やめるという決断をしてきたことについて取り上げます。
彼らの「それでも」という思いに触れることで、一筋縄ではいかない「復興」への道筋、そこにたどり着くために必要なものは何か、一緒に考えていただければ幸いです。
特集『3.11から5年――それでも』を始めます。
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