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  • 論点
  • Photo by 岩本室佳

あえて「辺野古二段階返還論」を唱える

  • 古谷経衡 (評論家/著述家)
  • 2018年9月29日

9月28日に満を持して沖縄入りしたものの、辛うじて県庁前付近で演説していた玉城デニー氏のそれを見物したのが最後。台風24号(チャーミー)の沖縄直撃により、沖縄県知事選挙は急遽、あと1日を残してこの日が各候補遊説の最終日となってしまった。

那覇では最大風速50メートルの暴風雨が吹き荒れ、至る所で樹木が倒壊。那覇空港発着便は全便欠航で空港は閉鎖。国際通りにも県庁前にも行き交う人の姿はまったく無い。重軽傷19名以上県内で24万5000戸以上が停電した。前代未聞の県知事選挙である。 さて、玉城、佐喜眞両候補とも、「普天間基地の早期返還」については全く同じ主張であった。愁眉のところは辺野古移設の是非である。私は、名護市辺野古に何度も足を運び、ある一つの結論に到達した。それは「辺野古二段階返還論(以下二段階論)」である。

二段階論とは何か。一旦、辺野古に基地を増設しつつ、「世界で最も危険」な普天間基地は1996年のSACO合意に基づき全面撤去する。これで沖縄からの基地返還はひとまずだが一歩前進する。それでは、「耐用年数200年」とも言われる辺野古の新基地についてはどうするのか。ここで二段階論の登場である。

「耐用年数200年」という言葉をもう一度点検するべきだ

「耐用年数200年」という言葉をもう一度点検するべきだ。「耐用年数200年」というのは、「日米同盟が今後200年続く」という意味と同義である。頑強な辺野古移設反対派は、辺野古移設によって「在沖縄米軍の恒久的な土地占有」を主張している。

確かにそれは分かるが、人類の歴史を俯瞰して200年続く同盟関係などあり得るのだろうか?

1952年に日米安保が締結されて既に65年余が経つ。ということは既存の同盟期間を含めて日米同盟は265年の永きに亘って続くと言うことになる。これは江戸時代(268年)と同等の時間の長さだ。

3世紀弱続く二国間同盟などあり得ない

こんなことが起こりえるであろうか? 3世紀弱続く二国間同盟などあり得ない。つまり私は何が言いたいのかというと、仮に辺野古に新基地が建設されたとしても、早晩、その辺野古新基地ですら日米同盟の終了によって返還(米軍撤退)を余儀なくされると言うことだ。これが私の提唱する二段階論である。

仮に辺野古に新基地が建設されたとしても、早晩、その辺野古新基地ですら日米同盟の終了によって返還(米軍撤退)を余儀なくされる

米軍は既に冷戦崩壊以後、東アジアから手を引く傾向を鮮明にし、その軍事拠点を米領グアムに集約させつつある。にもかかわらず在沖米軍が存在し続けるのは、日本が冷戦終結以降も一向に対米追従という国策を変更せず、アメリカに唯々諾々と従うだけで「思いやり予算」という名の基地維持費を毎年国税から献上しているからである。

現代軍事兵器の進歩によって、敵基地と我が方の距離は余り意味を持たなくなりつつある。極東米軍は米領グアムのアンダーセン空軍基地に無人偵察機群、無人攻撃機群を既に配備しているが、いざ台湾海峡や朝鮮半島で有事が起これば、拠点になるのはグアムである。むしろ、在日米軍(沖縄、三沢、横須賀)は、有事の際に紛争地域に近すぎて危険という意見すらある。

たかだか100年前、朝鮮半島の北部が核武装し、共産中国が世界第二位の経済大国になるなど、誰も予測できなかった

いざ有事となれば、もはや米軍はグアムにさえ拠点を持っていれば、沖縄や日本本土、韓国に基地や部隊を配備しておく必要は無い。にもかかわらず米軍が沖縄と日本に存在し続けるのは、繰り返すように日本側がその経済負担を実質タダにしているから、「そこまで厚遇してくれるのならばいても良い」という損得勘定の賜物であって、米軍が積極的に沖縄や日本本土にいる理由は希釈化する。考えてもみれば分かるように、たかだか100年前、朝鮮半島の北部が核武装し、共産中国が世界第二位の経済大国になるなど、誰も予測できなかった。あと200年の間に日米関係と極東関係が誰にも予想できない方向に変化し、「辺野古新基地」ひいては日米同盟そのものが終了するケースをなぜ考えないのか不思議である。 ヒントとなるのはフィリピンと在比米軍の関係である。アメリカは米西戦争(1898年)で旧世界の大国スペインを撃破して太平洋に大きく西進した。その結果、スペインからキューバおよびグアムとフィリピンを奪取することに成功した。アメリカがもくろんだのは、将来における中国大陸方面への進出である。

だからアメリカは、保護領としたフィリピンに最低限度の自治権と潤沢なインフラを与える代わりに、フィリピンを恒久的な軍事基地として改造した。まず極東最大の航空基地クラークフィールドをルソン島に建造。そしてスービック海軍基地に巨大な艦隊泊地を創った。フィリピン最大の都市・マニラ防衛のために、マニラ湾に侵入するコレヒドール島には、半永久的な軍事基地――アジア最大の要塞、コレヒドール要塞を建設して盤石な守りを固めた。

アメリカはフィリピン自治政府(フィリピン・コモンウェルス)に将来の独立を約束し、アメリカの指導の下、フィリピン国軍建設の準備に取りかかった。しかし、このフィリピン国軍は、いざ有事の際には米軍と共に行動する米軍の補助部隊であり、潜在的宗主権はアメリカに有り続ける―、この改造を1930年代に急ピッチで推し進めたのは、「アイシャルリターン」で有名なダグラス・マッカーサー将軍であった。


Photo By U.S. Army Signal Corps officer Gaetano Faillace

マッカーサーは、フィリピンを極東で最も要塞化された、最も忠実な保護国にしようとした。フィリピンの歴史学者、レナト・コンスタンティーノはこうした当時のフィリピンを「アメリカの茶色い弟」と自虐的に振り返っている。

さて果たしてフィリピンはその後、アメリカに追従する半恒久的軍事基地になったのだろうか。答えは否である。第二次大戦後、フィリピンは確かにアメリカの約束通り独立した。第二次国共内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争を経て、フィリピンは地政学的に重要な極東における「反共の防波堤」となった。

フィリピンには親米独裁のマルコスが居座り、潜在的な宗主国――つまりアメリカを下支えし続けた。しかしフィリピン人は諦めていなかった。1986年、人民革命(ピープルパワー革命)によりマルコス政権はあっけなく打倒される。マルコスはハワイに亡命した。後続のコラソン・アキノ大統領は、沖縄と同じように米兵犯罪が頻発する在比米軍のあり方を問題視し、議会で全米軍撤退決議を可決。フィリピンの民主的決定に従わざるを得なかった米軍は、1992年を最後にフィリピンから全面撤退を余儀なくされたのである。 現在、特に西沙諸島問題に関して中比関係が緊張する中、かつての米比軍事関係、つまり米比の共同軍事演習や米艦隊のスービック寄港などがあるが、基本的にフィリピンから米軍基地は撤退したままである。

米軍が撤退した後の米軍基地施設はどうなっているのか。私は二年前、クラークフィールドに行った。かつて極東最大と謳われた米空軍基地は跡形も無く、現在同基地跡はクラークフィールド経済特区として、カジノ・複合商業施設、ホテル、医療研究機関などが集積している。

ロドリゴ・ドゥテルテ現政権は、このクラークフィールド経済特区とメトロマニラ(マニラ広域都市圏)を結ぶ高速鉄道建設の構想に取りかかっている。実現すればクラークフィールドは、マニラと短時間で結ばれ、フィリピン経済を牽引する第二の心臓として本格的に稼働するだろう。ちなみに米海軍の拠点だったスービック海軍基地は、観光地になっている。

アジアの半永久的な軍事基地を目指した米軍のフィリピン改造計画は、国際情勢の変化とフィリピン人の不屈の意思によって、わずか100年もたたずに崩壊した。さてフィリピンでそれが出来てなぜ日本でそれが出来ないのだろうか?

「耐用年数200年」の辺野古新基地の使用期限のなかで、必ず日米同盟は終了する。よって辺野古は必ず日本に帰ってくる。嘉手納も三沢も横須賀も岩国もまた然りだ。こういった未来を、私は沖縄で夢想している。


Photo by 古谷経衡

旧米軍基地跡に立つ巨大なショッピングモールには地元の買い物客で賑わう(フィリピン、SMシティクラーク、旧クラークフィールド基地跡にて筆者撮影)


Photo by 古谷経衡

2018年9月29日よる20時ちょうど、投票日前日の沖縄県庁。台風24号(チャーミー)の最接近により暴風が吹き荒れ、「最後の訴え」の無い異例の県知事選挙。(写真前面にあるのは強風で吹き飛ばされた街路樹)

著者プロフィール

古谷経衡
ふるや・つねひら

評論家/著述家

1982年札幌市生まれ。立命館大学卒。NPO法人江東映像文化振興事業団理事長。ヤフーニュースや論壇誌などに記事を掲載中。著書に『インターネットは永遠にリアル社会を超えられない』『若者は本当に右傾化しているのか』『クールジャパンの嘘』『欲望のすすめ』など多数。TOKYO FM「タイムライン」隔週火曜レギュラー。

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